以前から、日本の戦国期の各武将のことをみていくことが趣味になった。
日本の戦国期及び江戸初期の武将で、事績・才能・性格・容姿等、各事項や事柄に特に該当する武将を整理して、以下に列挙してみた。
挙げ落としている分や事項は今後適宜、追補していく予定。
<!><!!>は、そのことを知った時に意外だと感じた、ちょっと(たいそう)驚いたことを示している。
〔事項〕
天下取りをめぐる面
麾下の武将
戦や戦術の面
諸能力の面
生涯の事跡の面
出自・家柄・身内の面
体格・容姿・身体の面
思想・信条の面
性格・性癖・嗜好の面
その他の面
〔自選〕
・すぐれた戦国期の武将・best20
・好きな戦国期の武将・best20
〔リンク〕
・武将や戦国期についてのページ
天下取りをめぐる面
天下人となった武将
豊臣秀吉
徳川家康
三好長慶
(畿内・阿波の戦国大名。全盛期(1550年代末)には、近畿一帯に版図を拡大して戦国期における最初の「天下人」とも称されている。
※、1561年から権勢の衰退が始まり、1564年に病死し、1568年には、入京を果たした足利義昭と信長によって後継の三好三人衆は京から追い出されて畿内の三好政権は崩壊している。)
天下を取る力量・器量・チャンスがあったのに、惜しくも天下取りが成らなかった武将
織田信長
(本能寺の変にて横死)
武田信玄
(上京の途次に病没(暗殺?)
上杉謙信
(途次に病没(暗殺?)
今川義元
(上洛の途次の桶狭
間の戦いで横死)
明智光秀
(主君信長を謀反を起こして誅したが、そのあと、秀吉との天下分け目の山崎の合戦において敗死)
もう一歩で天下を取れた武将
(劣勢ではなかった関ヶ原の戦いで徳川方に勝利した場合)
石田三成・豊臣秀頼・毛利輝元・宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継
(劣勢では必ずしもなかった賤ヶ岳の戦いで秀吉方に勝利した場合)
柴田勝家
天下取りへの気概をひそかに持(じ)していた武将
黒田 官兵衛
(関ヶ原の戦いの際、関ヶ原の戦いが長引くことを想定し、九州北部制圧の勢いの中でその機をねらっていた。)
伊達政宗
上杉景勝
蒲生氏郷
陶 晴賢
天下を狙える力量を仕えた主君に見抜かれてその出世をおさえられてしまった武将
(〔 〕はその主君)
蒲生氏郷
(信長に仕えていた
時期は信長の後継
者と目されていた。)
〔豊臣秀吉〕
堀秀政
〔豊臣秀吉〕
黒田 官兵衛
〔豊臣秀吉〕
もうしばらく長生きしていたら、戦国期の流れは違っていたと思われる武将(★は特に)
織田信長★、織田信忠、柴田勝家
豊臣秀吉、豊臣秀長★、前田利家、竹中半兵衛
石田三成、島左近
加藤清正、
蒲生氏郷★、堀秀政
武田信玄★、山本勘助、武田信繁、山県昌景、馬場信房、内藤昌豊、高坂昌信、秋山信友
上杉謙信★
今川義元、太原雪斎★
北条氏康、北条幻庵
毛利元就、小早川隆景★、吉川元春
明智光秀
斎藤道三
浅井長政
真田昌幸、真田幸村
長宗我部信親
麾下の武将
秀吉・家康による天下取
りに大いに貢献した武将
豊臣秀吉による天下取り
黒田官兵衛
竹中半兵衛
豊臣秀長
前田利家
蜂須賀小六
安国寺恵瓊
前田玄以
浅野長政
古田織部
加藤清正
福島正則
加藤嘉明
脇坂安治
小西行長
小早川隆景
宇喜多秀家
蒲生氏郷
堀秀政
大谷吉継
丹羽長秀
石田三成
長束正家
増田長盛
中川清秀
山内一豊
堀尾吉晴
中村一氏
生駒親正
亀井茲矩
加藤光泰
徳川家康による天下取り
本多忠勝
井伊直政
榊原康政
酒井忠次
石川数正
本多正信
鳥居元吉
鳥居元忠
大久保忠世
大久保忠佐
(忠世の弟)
大久保忠隣
(忠世の子)
本多忠真
本多重次
天野康景
高力清長
服部正成
平岩親吉
渡辺守綱
永井直勝
水野勝成
本多正純
船越景直
藤堂高虎
黒田長政
浅野幸長
田中吉政
池田輝政
福島正則
細川忠興
加藤嘉明
山内一豊
生駒一正
京極高次
京極高知
小早川秀秋
伊達政宗
上杉景勝
最上義光
名補佐役・名軍師だった武将
(〔 〕は仕えた主君)
(名補佐役・重臣)
豊臣秀長
(秀吉の弟)
前田利家
浅野長政
〔豊臣秀吉〕
直江兼続
〔上杉景勝〕
武田信繁
(信玄の弟)
板垣信方
〔武田信玄〕
斉藤利三
明智秀満
〔明智光秀〕
鍋島直茂
〔龍造寺隆信〕
北条幻庵
(北条早雲の三男)
〔北条家五代に
わたって仕えた〕
(名懐刀)
本多正信
〔徳川家康〕
(名軍師・名参謀)
黒田 官兵衛
竹中 半兵衛
〔豊臣秀吉〕
本多忠勝
鳥居元忠
〔徳川家康〕
島 左近
〔石田三成〕
秋山信友
高坂昌信
〔武田信玄・武田勝頼〕
山本勘助
真田幸隆
〔武田信玄〕
宇佐美 定満
長尾政景
〔上杉謙信〕
太原雪斎
〔今川義元〕
片倉景綱
〔伊達政宗〕
小早川 隆景
〔毛利輝元〕
麾下の知られた名将・名臣
(〔 〕は仕えた主君)
本多忠勝
井伊直政
榊原康政
酒井忠次
〔徳川家康〕
柴田勝家
蒲生氏郷
堀 秀政
滝川一益
丹羽長秀
佐々成政
九鬼義隆
森 可成
佐久間 信盛
林 通勝
〔織田信長〕
福島正則
加藤清正
宇喜多 秀家
小西行長
大谷吉継
堀 秀政
蜂須賀 小六
加藤嘉明
小野木
重勝
(=重次、公郷。おのぎ。豊臣氏の古参の家臣。丹波福知山城主。関ヶ原の合戦では西軍に付き、細川家の守る丹波田辺城や居城の福知山城で攻防を行なった。兵3千の細川親子により兵1万5千の小野木軍が田辺城の戦いで関ヶ原に行けず足止めされたこと立花宗茂軍のそれとともに西軍にとって誤算となった。西軍敗北のあと、立ち戻った福知山城を攻められ助命をして幽居したが自刃させられた。妻は島左近の娘でクリスチャンのジョアンナ。夫のあとを追って自害している。)
〔豊臣秀吉〕
山県昌景
馬場信房
内藤昌豊
真田信綱
〔武田信玄・武田勝頼〕
柿崎景家
直江景綱
本庄繁長
〔上杉謙信〕
明智秀満
斎藤利三
〔明智光秀〕
伊達成実
〔伊達政宗〕
朝倉宗滴
(そうてき。朝倉家に三代(朝倉貞景・朝倉孝景・朝倉義景)にわたって仕えた。)
〔朝倉義景〕
可児才蔵
〔福島正則〕
明石全登
花房職秀(もとひで)
〔宇喜多秀家〕
立花道雪
(宗茂の養父)
高橋紹運
(じょううん。宗茂の父。)
〔大友宗麟〕
後藤 又兵衛
(のちに確執から黒田家から離れた。)
〔黒田官兵衛・黒田長政〕
十河一存
(そごうかずまさ。三好長慶の弟。三好政権を軍事面で大いに支えた。)
〔三好長慶〕
麾下のマイナーな
(=知名度の低い)武将
(〔 〕は仕えた主君)
蜂屋頼隆
河尻秀隆
磯野員昌(かずまさ)
池田勝正
安藤守就(もりなり)
氏家卜全(うじいえぼくぜん)
不破光治
不破重則
三好康長
原田直政
(=塙 直政。石山本願寺攻めの際に乱戦の中で身内の武将とともに討ち死にした。)
中川重政
(信長の尾張国統一に貢献した。)
松井友閑
(足利義晴、織田信長に仕え、堺奉行をつとめた。津田宗及とも親交があり、茶道にも秀でていた。)
武井夕庵
(せきあん。美濃斉藤家及び信長に右筆・吏僚、茶人として仕え、比叡山の焼き討ちなど信長の歴戦へも参加している。)
〔以上、織田信長〕
脇坂安治
生駒親正
堀尾吉晴
中村一氏
亀井茲矩
加藤光泰
一柳直末
(ひとつやなぎなおすえ。美濃の軽海西城主。小田原攻めの際、伊豆の山中城を攻撃中に流れ弾にあたり、戦死。)
〔以上、豊臣秀吉〕
本多 作左衛門(=重次)
高力清長(こうりき
きよなが)
天野康景
(以上、三河三奉行と呼ばれた。)
船越景直
(かげなお。信長、秀吉を経て、家康に取り立てられる。関ヶ原の合戦では本多正純とともに本陣で近侍した。)
〔以上、徳川家康〕
蒲生頼郷
(よりさと。=横山喜内。元は六角氏、蒲生氏郷の家臣。関ヶ原の合戦で石田隊の先鋒として奮闘し織田有楽斎と対峙した際に討ち死にとなった。)
蒲生将監
(しょうげん。=安藤直重。元は蒲生氏郷の家臣。関ヶ原の合戦で戦死した。)
蒲生郷舎
(さといえ。元は蒲生氏の家臣。
※過去においては、織田有楽斎と対峙した際に討ち死した蒲生頼郷と混同されていた。)
舞 兵衛
(まいひょうご。=前野忠康。三成麾下の猛将の一人。秀吉の古参の家臣だった前野長康は義父であり、秀次の事件で長康は連座して自害するが忠康は三成に匿われて難を逃れ、のちに赦されて三成の家臣となった。関ヶ原の合戦で戦死した。)
杉江 勘兵衛
(三成麾下の猛将の一人。関ヶ原の合戦の前哨戦の木曽川・合渡川の戦いで戦死。)
渡辺 勘兵衛
(三成麾下の猛将の一人。三成の若い時期から三成に仕えた。関ヶ原の合戦で石田隊に属して奮戦し、敗走の際に重傷を負ったため自刃して果てた。)
〔以上、石田三成〕
山崎吉家
(よしいえ。朝倉宗滴とともに朝倉孝景・朝倉義景に仕えた。宗滴の没後は外交面で活躍した。歌人でもあった。)
〔朝倉義景〕
渡辺 了
(さとる。「槍の勘兵衛」と称された勇猛の家臣。)
〔藤堂高虎〕
坂崎直盛
花房正幸(はなぶさ まさよし)
花房正成
(正幸の嫡男)
〔宇喜多直家・宇喜多秀家〕
辻
重勝
(=辻 勘兵衛。勇猛で知られた家臣。)
[田中吉政]
三好長逸(ながゆき)
三好政泰(=宗渭(そうい))
岩成友通
(以上、三好三人衆。73年に戦死し彼らの勢力は崩壊した。)
三好康長
(三好元長(長慶の父)の弟。長慶逝去以降、三好三人衆や篠原長房とともに、三好政権を支えた重臣。)
小笠原信定
(三好家の客将。)
〔以上、三好長慶・三好実休・三好長治〕
篠原長房
(阿波国の麻植郡上桜城主。阿波において三好実休(じっきゅう。長慶の弟。1953年に阿波国の守護・細川持隆を殺害して阿波の国を支配した。)・三好長治(実休の長男。1562年の久米田の戦いで討ち死にした実休のあとを継いだ。)の重臣だった。当時三好三人衆をしのぐほど、三好家中をよくまとめた能吏として、権勢を誇った。)
篠原自遁
(じとん。篠原長房の弟。)
加地盛時
(かじ。三好家家臣。)
〔以上、三好実休・三好長治〕
栗山善助
母利 太兵衛
井上 九郎右衛門
黒田一成
〔以上、黒田官兵衛・
黒田長政・黒田忠之〕
香宗我部 親泰
(こうそかべ・元親の弟)
〔長宗我部元親〕
戦(いくさ)や戦術の面
軍神と言われた武将
上杉謙信
本多忠勝
島津義弘
立花道雪
とにかく戦に強かった武将
武田信玄
上杉謙信
徳川家康
織田信長
豊臣秀吉
真田幸村
立花宗茂
島津義弘
本多忠勝
蒲生氏郷
加藤清正
戦上手だった武将
武田信玄
上杉謙信
徳川家康
織田信長
豊臣秀吉
豊臣秀長
細川忠興
長宗我部元親
立花宗茂
立花道雪
(宗茂の養父)
小早川隆景
吉川元春
馬場信房
島津家久
(島津義弘の異母弟)
真田幸村
真田昌幸
毛利勝永
雑賀孫市
(さいか=鈴木重秀。紀伊の鉄砲集団雑賀党の頭領、石山本願寺と結託し信長を悩ました。)
生涯、無敗だった武将
吉川元春
黒田官兵衛
立花宗茂
甲斐親直
(=宗運肥後阿蘇氏の軍師)
知勇兼備の武将
山県昌景
伊達成実
(しげざね・伊達家の名将)
後藤又兵衛
武田元繁
(安芸の武将)
北条氏照
(氏康の三男)
勇猛な猛将・闘将だった武将
福島正則
加藤清正
柴田勝家
馬場信房
山県昌景
内藤昌豊
飯富虎昌
小幡虎盛
原 虎胤
(以上、武田家に仕えた。)
岡部元信
(今川家・武田家に仕えた。)
柿崎景家
小島貞興
(=小島弥太郎。上杉謙信家臣。)
村上義清
北条綱成
(つなしげ。北条家四代(氏綱・氏康・氏政・氏直)にわたって仕えた。)
北条氏照
(氏康の三男)
北条氏邦
(氏康の五男)
朝倉宗滴
(そうてき。朝倉家三代(朝倉貞景・朝倉孝景・朝倉義景)にわたって仕えた。)
徳川信康
(武勇に優れた武将であった。一方、猛々しい部分もあった。)
結城秀康
(武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯も良かった。)
島津義弘
島津家久
(島津貴久の四男。義弘の異母弟。)
島津豊久
(家久の嫡男)
吉川元春
吉川経基
吉川経家
真柄直隆
(まがら。朝倉家の客将。姉川の戦いで討ち死にした。)
遠藤直経
(なおつね。浅井長政に仕えた武将。姉川の戦いの終盤に相手の兵になりすまし、信長の陣地にしのびよって信長を討とうとしたが見破られて首を取られた。)
熊谷信直
(安芸の武将)
武田光和
(安芸の武将)
佐竹義重
(義宜の父。常陸の武将。)
九戸政実
(くのへ・奥州南部氏の家臣)
立花道雪
山中鹿之助
島左近
渡辺勘兵衛
舞兵庫
杉江勘兵衛
(以上、石田三成家臣)
渡辺 了
(さとる。=渡辺 勘兵衛。藤堂高虎の家臣。)
辻 重勝
(=辻 勘兵衛。田中吉政の家臣。)
※、上掲の杉江勘兵衛,、渡辺了、辻 重勝は、勇猛な武将として、「三勘兵衛」と称された。
豪勇・豪胆の武将
龍造寺 隆信
(肥前龍造寺宗家)
塙 団右衛門
(ばん。諸将に仕えた。)
森 長可
(森蘭丸の実兄。「鬼武蔵」と称された。)
板垣信方
(武田家の名将)
佐久間 盛政
毛利秀元
(ひでもと。輝元の養子。父は元就の4男元清。関ヶ原の合戦では毛利家本宗を率いる総大将として南宮山で吉川広家軍の後方に布陣していたが広家軍が動かなかったため合戦には参加できず本戦終結後は大阪まで脱出。豪勇ぶりで知られた。戦後、大幅に領地を削られた毛利家の一領地(今の山口県西部の長門の国)を拝領した。)
智将(知将)だった武将
真田幸村
島 左近
直江兼続
小早川隆景
秋山信友
(武田家の名将)
真田幸隆
(真田昌幸の父)
島津善久
(よしひさ。島津貴久の長男。義弘の兄。)
島津歳久
(としひさ。島津貴久の三男。義弘の弟。)
すぐれた軍略家だった武将
高坂昌信
(武田家の名将)
馬場信春
(武田家の名将)
太原雪斎
(今川義元の参謀)
赤井直正
(「丹後の赤鬼」という異名で恐れられた丹後の豪族。信長の丹後攻略において光秀軍を幾度も撃退した。のちに信長に仕えた。)
陶晴賢
権謀術数の謀略家だった武将
真田昌幸
真田幸隆
毛利元就
宇喜多直家
尼子経久
斎藤道三
松永久秀
最上義光
黒田長政
用兵・采配にすぐれた武将
黒田官兵衛
大谷吉継
滝川一益
立花道雪
島左近
明石全登
真田昌幸
真田幸村
島津義弘
島津家久
後藤又兵衛
山県昌景
馬場信春
内藤昌豊
上杉謙信
武田信玄
織田信長
豊臣秀吉
徳川家康
冷静沈着だった武将
加藤嘉明
(「沈勇の士」と謳われた。)
先陣の先頭に立って奮戦した武将
井伊直政
本多忠勝
黒田長政
蒲生氏郷
森 可成
(「攻めの三左」と呼ばれた)、
片倉景綱
伊達成実
柿崎景家
小島貞興
(=小島弥太郎。
上杉謙信家臣。
長尾家の斬り込み隊長。)
松本景繁
北条高広
(上杉謙信等の家臣)
山県昌景
真田幸隆
池田勝正
(摂津池田家の武将。のちに信長の配下となり金ケ崎の戦いで活躍。)
北条綱成
(つなしげ。北条家四代(氏綱・氏康・氏政・氏直)にわたって仕えた。)
鉄砲隊を指揮した武将
佐々成政
明智光秀
鉄砲の名手だった武将
上杉謙信
浅野幸長
雜賀孫市(=鈴木重秀)
杉谷 善住坊
(織田信長を狙撃した
人物として知られる。)
稲富祐秀
(いなどめ すけひで。
丹後の一色氏の家臣。)
槍の名手だった武将
本多忠勝
(十文字槍「蜻蛉切」を所持)
前田利家
(「槍の又左」)
真田幸村
可児才蔵
(福島正則家臣)
直江兼続
前田慶次
後藤 又兵衛
(「槍の又兵衛」)
飯田 覚兵衛
(加藤清正家臣)
母里 太兵衛
(黒田家の家臣。福島正則の名槍「日本号」をもらい受ける。)
加藤清正
(片鎌槍の名手)
福島正則
(名槍「日本号」)
山内一豊
斎藤道三
吉川広家
島左近
長宗我部元親
服部半蔵
森 可成
(関兼定銘の十文字槍を所持)
森 長可
(可成の長男、「人間無骨」の十文字槍を所持)
結城秀康
(名槍「御手杵(おてぎね)」を所持)
島津忠恒
(薩摩藩初代藩主。義弘の三男。)
渡辺守綱
(徳川家康家臣。「槍半蔵」)
渡辺 了
(藤堂高虎家臣。「槍の勘兵衛」)
小野鎮幸
(立花宗茂家臣)
槍戦術にすぐれていた武将
斎藤道三
村上義清
(上杉謙信臣下・北信濃の武将。長槍による槍衾戦術を得意とした。)
弓、弓馬の名手だった武将
六角義賢
(六角定頼の嫡男。)
六角義治
(義賢の嫡男。)
花房正幸
(宇喜多家家臣)
忍びや間諜を用いて情報網が広く、情報戦にすぐれていた武将
徳川家康
豊臣秀吉
織田信長
武田信玄
上杉謙信
真田幸村
伊達政宗
前田利家
北条氏康
毛利元就
蜂須賀小六
宇喜多直家
外交・折衝面に
秀(ひい)でていた武将
豊臣秀吉
安国寺恵瓊
増田長盛
黒田官兵衛
蜂須賀小六
伊達政宗
佐竹義重
(どの国に付くかなど自身の国が生き残っていくための並外れた時流を読む政治バランスの才があった。)
堀秀政
古田織部
松井友閑
武井夕庵
平手政秀
黒田長政
宗義智
(よしとし・対馬の領主、
朝鮮との外交に活躍)
真田信尹
(のぶただ・昌幸の弟)
水軍の将として活躍した武将
九鬼義隆
(信長に仕え、水軍の将として活躍。)
加藤嘉明・藤堂高虎・脇坂安治
(いずれも秀吉に仕え、朝鮮の役などで水軍の将として活躍)
小早川隆景
(毛利家の村上水軍を率いた)
小西行長
長宗我部元親
城攻めが得意だった武将
豊臣秀吉
野戦が得意だった武将
徳川家康
騎馬戦が得意だった武将
武田信玄
伊達政宗
投石部隊を率いていた武将
小山田茂信
真田幸村
戦で大きな手柄を立てた武将
(関ヶ原の合戦)
小早川 秀秋
脇坂安治
裏切って西軍を攻め、
東軍の勝利に貢献した。
吉川広家
南宮山に控える毛
利軍等を押し止めた。
平岡頼勝、稲葉正成
(以上、小早川秀秋の家老)
徳川方と内通し、
主君の裏切りを促した。
黒田長政
豊臣恩顧の武将を東
軍に付かせ、西軍の将
との内通で手柄を立てた。
井伊直政
全国の諸大名を東軍に
付かせる工作を行なった。
藤堂高虎
西軍の将との内通
で手柄を立てた。
本多正信
家康の懐刀として、
関ヶ原の合戦に向けて
各戦略を提言した。
本多忠勝
家康本陣に従軍し、
大名たちを東軍に付
かせる工作につとめた。
福島正則
小山評定の発言によ
り多くの武将を東軍に
付かせることに貢献した。
山内一豊
東海道の領地と居城
を進呈して東軍のスムーズ
な進軍に貢献した。
京極高次
大津籠城戦により、立花
宗茂・毛利元康の軍
の参戦を遅らせた。
細川幽斎、細川幸隆、三淵光行
(細川幸隆は幽斎の三男で、忠興の異母弟。三淵光行は三淵藤英の次男。)
田辺籠城戦により、小野木重勝
の丹後・但馬の軍の参
戦を遅らせた。
池田輝政
岐阜城の開城に貢献した。
(賤ヶ岳の戦いの合戦)
前田利家
戦線不参加で貢献した。
(山崎の合戦)
細川幽斎・細川忠興
戦線不参加で貢献した。
(忍城の戦い)
成田長親
(ながちか・忍城城主)
諸能力・教養の面
教養が広く、賢さ・知恵・先見にすぐれた人格者だった武将
小早川隆景
蒲生氏郷
北条氏康
教養や知見が広かった武将
明智光秀
学識があった武将
細川幽斎
穴山梅雪
石田三成
思想・宗教に対する
理解や疑義が鋭かった武将
織田信長
斎藤龍興<!>
(キリスト教の救済の教えについて宣教師に鋭い疑義を述べて感心されている)
万能・マルチで、あらゆることに秀(ひい)でて活躍した武将
山県昌景
蒲生氏郷
能吏・政治家だった武将
石田三成
堀秀政
(信長・秀吉の家臣)
丹羽長秀
柴田勝家
蜂須賀小六
村井貞勝
(信長に仕えた)
前田玄以
(秀吉に仕えた)
会計・財政に秀でた経済面に明るかった武将
石田三成
長束正家
増田長盛
丹羽長秀
織田信長
アイデアマンだった武将
直江兼続
堀尾忠氏
人使いがうまかった武将
豊臣秀吉
武田信玄
黒田官兵衛
領国の経営や開拓・
治水にも業績を残した武将
武田信玄
北条氏康
北条氏政
柴田勝家
田中吉政
石田三成
立花宗茂
蒲生氏郷
高坂昌信
加藤嘉明
穴山梅雪
六角定頼
(近江の守護大名。領国の内政において、楽市楽座の創始など先駆的な業績を残した。)
松野重元
(=主馬(しゅめ)。関ヶ原の合戦の小早川秀秋の裏切りの行為に従わず、戦線を離脱した。田中吉政に仕えて治水で才を発揮した。)
築城に秀(ひい)でていた武将
加藤清正
黒田官兵衛
藤堂高虎
※、以上、「日本三大築城家」とされている。
豊臣秀吉
丹羽長秀
丹羽長重
太田道灌
加藤嘉明
蒲生氏郷
馬場信春
飯田 覚兵衛
(加藤清正家臣)
土木の作業に部下を動
員して取り組んだ武将
服部正成(=二代目服部半蔵)
蜂須賀小六
文武両道だった武将
蒲生氏郷
北条氏康
吉川元春<!>
穴山梅雪
黒田官兵衛
(和歌や歌学の嗜
みがあった)<!>
黒田長政
稲葉良通(=稲葉一鉄)
長宗我部元親
金森長近
小山田信茂
武田信玄
伊達政宗
浅野幸長
武功よりも一級の文化
人として有名だった武将
細川幽斎
北条幻庵
(北条早雲の3男)
今川氏真
(蹴鞠・剣術に精通していた。)
大内義隆
太田道灌
古田織部
武田信廉
松平忠輝<!>
文芸も好んだ武将
細川幽斎
(古今伝授の宗匠だった)
細川忠興
(父幽斎から歌学を学んだ)
黒田官兵衛
(歌学の教養があった)<!>
吉川元春
(源氏物語を愛読した)<!>
豊臣秀吉
(詠歌を学んだ)
今川氏真
(多くの和歌を詠んでいる。)
三好長慶
(連歌などの教養を備え、風流をたしなみ、禅にも傾倒し、キリシタンを保護した文化人でもあった。)
山崎吉家
(朝倉義景の重臣。歌人でもあった。)
芸術を好んだ武将
武田信廉
(絵描きを好んだ)
達筆、能筆だった武将
穴山梅雪
毛利元就
森 長可
予見力があった武将
安国寺恵瓊
(書状の中で信長の横死
と秀吉の台頭を予言)<!>
先見力があった武将
小早川隆景
黒田官兵衛
生涯の事跡の面
悲運・悲劇に終わった武将
(忠義・友誼に殉じた武将)
石田三成
大谷吉継
真田幸村
鳥居元忠
(家康の家臣。関ヶ原の前哨戦で老身ながら守将として伏見城に残り討ち死にした。)
(主君のために殉じた武将)
(〔 〕は仕えた主君)
島津豊久〔島津義弘〕
(家久の子。義弘の甥。関ヶ原の終局の島津勢の敵中突破・立ち退きの途中で主君義弘を守って討死を遂げた。)
長寿院
盛淳(もりあつ)〔島津義弘〕
(関ヶ原の終局の島津勢の敵中突破・立ち退きの途中で主君義弘の身代わりとなり討死を遂げた。)
夏目吉信〔徳川家康〕
(三方ヶ原の戦いの終局に、敗走していく家康の身代わりになって討死。文豪夏目漱石はその子孫<!>。)
渡辺
通(かよう)〔毛利元就〕
(第一次月山富田城の戦いの敗走の際に、元就の身代わりになって討死。)
真田信綱〔武田勝頼〕
(真田幸隆の嫡男。真田昌幸の兄。長篠の合戦で退却の際に主君勝頼を守って戦死。)
毛受勝照(めんじょう)〔柴田勝家〕
(賤ヶ岳の合戦で退却の際に主君の身代わりとなって主君を退かせ自刃。)
宇佐美定満〔上杉謙信〕、
(主君の政敵長尾政景と入水自殺。)
平手政秀〔織田信長〕
(信長に対して切腹して諫(いさ)めた。)
(劣勢の戦場で散った武将)
真田幸村・後藤又兵衛・木村重成
(いずれも、大坂夏の陣で戦死。)
真田大助
(幸村の長男。大阪夏の陣で豊臣秀頼のかたわらで殉じた。享年14歳。)
武田信勝
(勝頼の長男。母は信長の養女で出産の際に死す。天目山で父とともに自刃。けなげな若武者だった。享年16歳。)
武田信豊
(信繁の次男。武田征伐において小諸城に逃げたが家臣に叛かれて城内で自刃。)
長宗我部 信親
(戸次川の戦いで戦死。享年22歳。)
(お家の衰運の中で敗戦し自刃した武将)
武田勝頼
(信玄の4男)
仁科盛信
(信玄の5男、信濃高遠城主)
武田信廉
高橋紹運
(じょううん・大友家の名将。岩屋城を死守し討ち死。)
(落城の際に城兵の命と引き替えに切腹して果てた武将)
清水宗治
吉川経家
別所長治
尼子勝久
北条氏政・北条氏照
(壮絶な割腹をして果てた武将)
柴田勝家
丹羽長秀
(悲運・悲劇のもとに世を去った武将)
豊臣秀頼
小早川秀秋
織田信孝
豊臣秀次
(秀吉の養子となり、出世を重ねたが、秀頼が生まれて以降、謀反の疑いをかけられ、切腹を命じられる。そのあと、子息側女も皆殺しの目にあった。)
上杉景虎
(北条氏康の7男。上杉謙信の養子となるが、のちに、家督争いで景勝に敗れて自害。享年26歳。)
武田義信
(信玄の長男。父に似た器量があり、若くして戦功を挙げたが、今川義元の死後、義元の娘を正室としていたこともあり、対今川戦略をめぐって父信玄と対立した結果、重臣とともに処罰を受け、自害した。享年30歳。)
松平信康
(家康の長男。母とともに武田への内応を疑われて信長の命(めい)で切腹の目にあう。)
柿崎景家
(上杉謙信に仕えた名将。内応を疑われて殺害された。)
清水宗治
(備中高松城主。高松城攻めでの和睦で代表して船上で切腹。)
(本能寺の変のあおりを受けて悲運に終わった武将)
織田信澄
(のぶずみ。織田信行の子。謀反を起こした明智光秀の娘婿であったことから同行していた丹羽長秀・織田信孝に殺された。)
河尻秀隆
(領国の甲斐の民の攻めを受けて殺された。)
穴山梅雪
(徳川家康の一行と別れて後、山中の土民の手にかかって殺された。)
(暗殺された武将)
太田道灌
(扇谷上杉定正の家臣。主君定正の嫉妬により湯殿にいたところを斬殺された。)
(だまし討ちにされた武将)
波多野秀治、波多野秀尚
(ひではる、ひでひさ(ふでなお)。丹波の国の大名。波多野三兄弟のうちの長男・次男。信長の最初の丹波攻略において、仕えていた信長を裏切って、赤井軍とともに光秀軍を敗走させた。三度目の丹波攻略において居城の八上城に籠城して光秀軍と戦うが1年半に及ぶ攻防の末、和議をもちかけられ、和議交渉として訪れた安土城でだまされた形で信長の命で捕らえられて二人とも磔にされた。)
城井鎮房
(きい
しげふさ。豊前の城井谷城主。黒田家との和議の酒宴の席でだまし討ちにあった。)
新開実綱
(しんがい。阿波の有力土豪。長宗我部元親との和議の酒宴のあと、だまし討ちにあった。)
秋山信友
(縁戚関係にあった相手側の織田信長のゆるしに期待したが和議のあとに捕らえられ処刑された。)
(晩年、不遇のまま世を去った武将)
丹羽長秀
佐々成政
(お家の復興が成らずに終わった武将)
山中鹿之助
(戦後、捕らえられたあと、街中を引き回しの上、斬首され、さらし首にされた武将)
石田三成
小西行長
安国寺恵瓊
(いずれも、関ヶ原の合戦の西軍の敗将。)
長宗我部 盛親
(元親の4男。関ヶ原の合戦ののち牢人となり、大坂夏の陣で秀頼方に付いたが大坂城炎上で逃げ隠れていたところを捕らえられて市中引き回しのうえ、斬首された。)
佐久間 盛政
(柴田勝家に仕え、賤ヶ岳の合戦で敗走し捕らえられて斬首された。)
豊臣国松
(豊臣秀頼の長男。大坂夏の陣ののち、伏見で見つけられ、首をはねられた。享年8歳。)
(戦後、さらし首にされた武将)
斎藤道三
長束正家
小野木 重勝
(丹波福知山城主)
明智光秀
斎藤利三
(戦後、極刑にされた武将)
万福丸
(浅井長政の子。串刺しにされた。)
(不慮の死を遂げた武将)
佐竹義重
(狩猟中に落馬して死亡。)
堀尾忠氏
(領地の山中でマムシにかまれて死亡。)
長尾政景
(湖上での船遊びの最中に溺死。)
戦場で壮絶に討ち死にした武将
蒲生頼郷、戸田重政、平塚為広
(いずれも、関ヶ原の合戦で西軍につき、討死。)
中川清秀
(賤ヶ岳の戦いで秀吉方として佐久間軍に攻められて討死にした。)
池田恒興、森 長可
(いずれも、小牧・長久手の合戦で秀吉方につき、討死。)
山県昌景、馬場信房、内藤昌豊
(いずれも武田家の名将。長篠の合戦で敵の鉄砲隊によって全身に銃弾を受けて戦死。)<!>
長宗我部信親、十河存保、戸次統常
(戸次川の戦いで、戦死。)
主君を裏切った(主君に謀反した)武将(〔 〕は仕えるべき主君)
穴山梅雪、小山田
信茂、木曽義昌
〔武田勝頼〕
荒木村重、松永久秀
〔織田信長〕
前田利家
〔柴田勝家〕
明智光秀
〔織田信長〕
陶 晴賢
〔大内義隆〕
小早川 秀秋
〔豊臣秀頼〕
他家と内通して謀反を企てた武将(〔 〕は仕えるべき主君)
大賀
弥四郎
〔徳川家康〕
(徳川家家臣。武田家との内通と謀反の企てがばれて、鋸引き刑で処せられた。)
裏切りの汚名を着た武将
松田憲秀
(北条家の重臣)
片桐且元
石川数正
穴山梅雪
吉川広家
後半生または晩年に
武士をやめた武将
宇喜多秀家
(関ヶ原での敗戦後、島津に逃げるも、見つけられて捕らえられ、34歳から亡くなる84歳まで、配流の八丈島で島民として生活を送る。)<!>
松平忠直
(結城秀康の長男。大坂夏の陣で活躍するもの、豊後に流され、監視の中、余生を送る。)<!>
松平忠輝
(ただてる。徳川家康の六男。父家康からうとまれ、14歳で伊達政宗の婿養子となった。24歳以降92歳で亡くなるまで、配流生活を送った。)
荒木村重
(晩年は茶人として茶の湯に生きた。)
石川丈山
(徳川家康に仕えたが、一番槍をとがめられて、武士をやめ、後は、文人として生きた。)<!>
老年期に頭角を
あらわして活躍した武将
北条早雲
後改易されたがのちに
大名に返り咲いた武将
立花宗茂
北条氏規
戦(いくさ)で大失態をおかして不遇となったが、のちに軍功を上げて挽回した武将
仙石秀久
ブレーンを失う、耄碌(もうろく)するなどで、老年期・晩年に愚昧になってしまった武将
豊臣秀吉
今川義元
仕えた主君をいくどか裏切ったがゆるされて復帰している武将
松永久秀
本庄繁長
主君の指示に背いた武将
松野重元
(=主馬(しゅめ)。松尾山に陣取っていた小早川秀秋の軍の先鋒隊の大将。小早川秀秋の裏切りの行為に従わず、戦線を離脱した。)<!>
各時期ごと権勢のある主君や武将に付いて、江戸時代初期の元和偃武まで生き抜いた武将
水野勝成
(途中、信長、秀吉、家康を含め10人の主君に仕えた。)
山内一豊
(途中、信長、秀吉、家康を含め10人の主君に仕えた。)
真田昌幸
(途中、信長、家康、秀吉を含め6人の主君に仕えた。)
細川忠興
(途中、信長、秀吉、家康を含め6人の主君に仕えた。)
黒田長政
(途中、信長、秀吉、家康を含め5人の主君に仕えた。)
金森長近
(途中、信長、秀吉、家康を含め5人の主君に仕えた。)
藤堂高虎
(途中、秀吉、家康を含め11人の主君に仕えた。)
加藤嘉明
(途中、秀吉、家康を含め5人の主君に仕えた。)
田中吉政
(途中、秀吉、家康を含め5人の主君に仕えた。)
高山右近
(途中、信長、秀吉を含め7人の主君に仕えた。)
可児才蔵
(かに。途中、柴田勝家、明智光秀、前田利家、福島正則を含め8人の主君に仕えた。)
渡辺
了
(さとる。槍の名手の勇猛な武将として知られた。藤堂高虎まで5人の主君に仕えた。)
長寿だった武将
(後の〔 〕は享年)
北条幻庵〔97〕
(北条早雲の三男。
北条家五代にわた
って仕えた重臣。)
真田信之〔93〕<!>
(幸村の兄。徳川方に付いた。)
松平忠輝〔92〕<!>
(家康の6男)
北条早雲〔88〕
黒田一成〔86〕
(黒田家家臣)
島津義弘〔85〕
宇喜多秀家〔84〕<!>
尼子経久〔84〕
(出雲富田城主)
金森長近〔84〕
細川忠興〔83〕<!>
鍋島直茂〔81〕
(肥前佐賀城主)
蜂須賀家政〔81〕
(蜂須賀小六の
長男。阿波城主。)
若くして亡くなった武将
(後の〔 〕は享年)
真田大助(自刃)〔14〕
武田信勝(自刃)〔16〕
森蘭丸(討死)〔17〕<!>
羽柴秀勝(病死)〔18〕
森
可隆(戦死)〔19〕
小早川 秀秋(狂死)〔21〕
松平信康(切腹)〔21〕
木村重成(戦死)〔22〕
長宗我部 信親(戦死)〔22〕
別所長治(自害)〔23〕<!>
豊臣秀頼(自刃)〔23〕
織田信忠(自刃)〔25〕
豊臣秀勝(病死)〔25〕
仁科盛信(戦死)〔25〕<!>
斎藤龍興(戦死)〔26〕<!>
上杉景虎(自刃)〔26〕
堀尾忠氏(急死)〔26〕<!>
森 長可(戦死)〔27〕<!>
豊臣秀次(切腹)〔27〕
佐久間 盛政(斬罪)〔29〕
浅井長政(自刃)〔29〕<!>
島津豊久(討死)〔30〕
武田義信(自害)〔30〕
真田昌輝(戦死)〔33〕
山中 鹿之助(謀殺)〔33〕<!>
本多忠朝(戦死)〔33〕
十河存保(戦死)〔33〕
陶 晴賢(自害)〔34〕
結城秀康(病死)〔34〕
武田信豊(自害)〔34〕
竹中
半兵衛(病死)〔35〕
生涯の事跡において、謎に包まれている面や疑いがある武将
明智光秀
(生き延びて、のちに天海(家康に仕えた僧)として現れて活躍したという「光秀=天海」説あり。)
織田信長
(本能寺では死なず、ひそかに薩摩へと逃れて生き延びたという説あり。じつは女性だったという女性説あり。)
上杉謙信
(じつは女性だったという女性説あり。織田側により暗殺されたという説あり。)
徳川家康
(桶狭間の戦いまたは関ヶ原の合戦または大坂夏の陣で、じつは戦死していて、その後の家康は替え玉(影武者)だったという「替え玉」説(有力な説)あり。本能寺の変に関して「黒幕=家康」説あり。)
山本勘助
(武田信玄の名参謀。「非実在」説あり。)
豊臣秀吉
(出自・家系に関して、いまだ各説あり。本能寺の変に関して「秀吉=首謀者」説、「秀吉光秀密約」説あり。)
豊臣秀頼
(秀吉は種無しであり、秀頼の父親は秀吉でないという説(有力な説)あり。幸村とともに生き延びていたという説(伝説)あり。)
真田幸村
(大坂夏の陣の最終戦で、多くの影武者を用いていたことから、討ち取ったどの首が幸村の首か判明していない。幸村は秀頼とともに薩摩に生き延びていたという説(伝説)あり。)
伊達政宗
(スペイン人との不義で生まれたスペイン人であり、オッドアイのゆえに片目を隠していた(片目はつぶしていなかった)という説あり。)
柴田勝家
(出自や前半生や享年がいまだ明らかになっていない。)
島 左近
(生まれや育ちがいまだ明らかになっていない。関ヶ原の合戦で負傷して敗れたが左近の首はあがっておらず、戦死せずに生き延びたという説あり。)
明石全登
(てるずみ。関ヶ原の合戦で西軍の宇喜多秀家隊の先鋒をつとめたが、敗れて、キリシタンゆえに自刃がかなわない中、縁者だった敵方の黒田長政の助けを得て筑前に潜行し、のちの大坂夏の陣では再び現れて大坂方の司令官となり、その敗戦時にまた生き延びたという説あり。その後行方知らずという生没年不詳の謎のキリシタン武将。)
加藤清正
浅野幸長(よしなが)
池田輝政
島津家久(義弘の弟)
蒲生氏郷
結城秀康(家康の次男)
小早川 秀秋
(以上、いずれも、毒殺・暗殺・謀殺されたという疑いあり。)
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