ドストエフスキーにおける
「自由」の問題
(1〜10)
(更新:24/10/15)
投稿者:
佐藤、Seigo、ブーニャン、
メ、確かな現実、他
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ドストエフスキーにおける
「自由」の問題
名前:佐藤
投稿日時:08/01/29(火)
<人間および人間の運命の問題は、ドストエフスキーとってはなによりもまず自由の問題である。>ベルジャーエフ
Seigoさんいつもお世話になっています。新しいボードの開設おめでとうございます。
以前に何度も話題になったことでありますが、ドストエフスキーにおける自由の問題はテーマとして是非取り上げていただきたいものと考えています。よろしくお願いします。
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RE:ドストエフスキーにおける
「自由」の問題
名前:Seigo(主宰)
投稿日時:08/01/29(火)
このテーマについてのあらためての意見交換の提案、待ってました!
(なお、こういったドストエフスキーの根幹になる大テーマに限っては、佐藤さんの投稿のタイトル(ベルジャーエフの言葉)は投稿文の冒頭に移動させて、主催側の私の方で、タイトルを、
ドストエフスキーにおけ
る「自由」の問題
にさせてもらいました。トップに常に掲げておくタイトルとして、了解願います。)
皆さん!この容易ならざる重要なテーマについて、日頃思っていることを、気長に、時にドスドス、述べてみて下さい!(「自由」自体に対する皆さんの日頃の問題意識の書き込みも歓迎です。)
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「自由」についての
ドストエフスキー文学の基本認識
名前:Seigo
投稿日時:08/01/29(火)
まずは、
ドストエフスキーの、文学の作中においての、
(※ドストエフスキー自身においてはどうだったのかについては別途に意見交換が必要でしょう)
自由に対する認識の一つは、
『カラ兄弟』の大審問官の章の中の、
「人間と人間社会にとって自由ほどたえがたいものはないからだ!」
(米川正夫訳)
や、
小説『主婦』、『地下室の手記』の中の、
「弱い人間に自由をやってごらんなさい。自分でその自由を縛りあげて、返しにきますよ。」
(『主婦』米川正夫訳)
「われわれにもっと多く自主性を与え、われわれを自由に行動させ、活動範囲をひろげ、監督をゆるめてみたまえ。われわれはすぐにまた、もとどおり監督してくださいとたのむにきまっている。」
(『地下室の手記』米川正夫訳)
に端的に表現されているのではないかと思います。
世間で言う「自由」(=外からの束縛や管理がないという意味での「自由」)というもの(特に過度な「自由」というもの)に対して、多分に、否定的だということです。
ちなみに、
パスカルも、
『パンセ』で、
「あまりに自由なのは、よくない。」
芥川龍之介も、
『侏儒の言葉』で、
「自由は、山巓(さんてん)の空気に似ている。どちらも弱い人間には堪(た)えることができない。」
と述べています。同じ認識でしょう。
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参考:「自由」についての
過去の書き込み記事
名前:Seigo
投稿日時:08/01/29(火)
佐藤さんが
>以前に何度も話題になったことでありますが、
と述べてますが、
こちら
は、当ページでの自由についての貴重な一連の書き込みです。
(その書き込みの中の「SEXYF.M.」さんはミエハリさんのことです。私Seigoの当時における「自由」をめぐっての基本的な考え・見方も知れます。)
一つの叩き台にしてみて下さい。
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RE:ドストエフスキーにおける
「自由」の問題
名前:佐藤
投稿日時:08/02/10(日)
「私は生涯にはじめて、痛切に自分を定義してみたのだった。すなわち、私は善悪の別を知らないし、感じてもいない男である、たんにその感覚を失ってしまったばかりでなく、善も悪もない男なのだ(これは私の気に入った)、あるのは一つの偏見だけ。また私はすべての偏見から自由になりうるのだが、その自由を手に入れた瞬間、私は破滅する。」
スタヴローギンの告白中の文書です。偏見からの自由とはどういうことを意味するのか、分かっているようで十分理解しているのかどうか熟慮したいところです。
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RE:ドストエフスキーにおける
「自由」の問題
名前:ブーニャン
投稿日時:08/02/10(日)
アインシュタインの自由→教育制度の権威に従わず、自分の知性が望むままのものだけに集中し、無駄と感じたものは基礎的な学習もおろそかにする。
デカルトの自由→一切の権威や常識を一度捨て去り、自己の理性に心から納得できるもののみを選択する。
サルトルの自由→自由を極端に理論化。既存の倫理感やまたは自分を圧制する常識からの解放。
ドストは持病、体験、経済状況等から考察すると、人生の全体が個人の力では超えれない力によって束縛されていたと思います。
後年の極めて高い集中のもとに作品が生み出されたのもそういった怠惰へと逃れることのできない運命にあったからのように思えます。そう考えてみる限り、自由なき人生というものも人類進歩に大きく貢献できるのかなという気もします。
(7)
[180]
RE:ドストエフスキーにおける
「自由」の問題
名前:佐藤
投稿日時:08/03/08(土)
<私の結論は、出発点となった最初の観念真っ向から対立する。つまり無限の自由から出発しつつ、無限の専制主義をもって終わるのである>
ドストエフスキーが予言していた社会主義体制の実態、また現代社会の様々な問題の根本はどこにあるのか?シガリョフの言葉が示す意味の深さには今更ながら改めて驚愕しています。
(8)
[197]
ドストエフスキーにおける
「自由」への道(1)
名前:Seigo
投稿日時:08/03/29(土)
※、30日(日)・31日(月)
に一部追記及び削除。
自由はその程度が過度になりすぎたり、うまく使えなかったりした場合は、人や社会にとって重荷やマイナスになるということを打ち出しつつ、ドストエフスキーは、その克服の道も模索し提示しています。
それらを以下に挙げてみます。
(以下のうち、後者は重荷としての自由(=過度の自由)の克服の道を述べたもの、一方、前者は「前提としての自由(=外的な条件としての自由)」のことよりも「結果としての自由(=結果としてもたらされる心の状態としての自由)」について触れたもの、ということになります。)
その一つは、
ゾシマ長老が言う、
「彼らは自由を強調していて、これは、最近に至って、ことに、はなはだしいがこのいわゆる自由の中に発見しうるものはなんであろう。ただ、隷属と自滅にすぎぬではないか!」
「人々は自由を目(もく)して、欲望の増進と満足というふうに解釈することによって、自分の自然性を不具にしているのだ。それは、自己の中に無数の愚かしい無意味な希望や、習慣や、思いつきを生み出すからである。」
「僧侶の歩む道は、これとまったく異なっている。人々は服従や精進や、進んでは祈祷(きとう)さえ冷笑するが、しかしこれらのものの中にのみ、真の自由に至る道が蔵(ぞう)されているのである。われらは、無用の欲望を切りはなし、自尊心の強い倨傲(きょごう)な意志を服従によってむち打ち柔(やわら)げ、神の助けを借りて精神の自由と、それにつれて、内心の愉悦(ゆえつ)を獲得するのである!」
(以上、米川正夫訳)
という個人の側の克己(自己制御・節制)や、信仰による服従や謙抑の方向。
ドストエフスキーは、このことを、
『作家の日記』でも、
「今日、世間では、自由ということを放縦の意味にとっている。しかしながら真の自由は、自分の意志にうちかつこと、克己にあるのだ。」
(ちくま学芸文庫『作家の日記4』のp174)
婦人に宛てた手紙でも、
「貴女はキリストとその聖約をお信じになりますか?もし信じておいでになれば(それとも、信じようと熱望しておられれば)、心からキリストに帰依しなさい。そうすれば、この分裂の苦しみもずっと柔(やわ)らいで、精神的に救いが得られます。しかも、これが肝要なことなのです。」
(1880年4月11日、カチェリーナ‐フョードロヴナへの書簡より。河出書房新社版全集の第18巻のp367。
※「分裂の苦しみ」とは、自由な中でのジレンマの状態における取捨選択の苦しみということであり、自由の問題のドストエフスキー自らの端的な表現でしょう。)
と述べています。
エピクテトスも
「己を制することのできない者は自由な人間とは言えない」
と喝破(かっぱ)しました。
ショーペンハウエルも
「れれわれの視野・活動範囲・接触範囲が狭いほど、われわれの幸福は大きい。それらが広いほど、われわれは煩(わずら)わしく、また不安に感ずる度合いが大きい。というのは、それらとともに心配・願望・恐怖が増大し、拡(ひろ)がるからである。」
と、いみじくも述べています。
もう一つは、
『カラマーゾフの兄弟』で大審問官が打ち出した方向。
人たちから自由を譲り受けた選ばれた強者たちが、人たちや社会を、人々にパン(パンの分配)や心の平安を保証しながら、正しく有効的に管理し教導していくという方向です。
佐藤さんが『悪霊』のシガリョフの言葉を引用して警告した通り、その方向は下手をすれば人々の自由を殺しあらぬ方向に暴走してしまう独裁的な管理体制を導いてしまうことがありますが、その選ばれた人たちがしっかりしていけば、また、個々人側の自由や個性も少なからず保証されていくなら、有効な方向ではないでしょうか。実際、この方式は、双方のバランスが取れている限り、古今において有効に行われてきたことです。(たとえば、高校野球における決められたルールのもとでの監督やコーチの指導・采配による選手たちの練習・試合など。)
そのほかには、
ドストエフスキーの見方から離れて考えても、ブーニャンさんが述べてくれた通り、行動を行わざるを得ないような外的な強制的な状況や運命にその身が置かれるということもしばしば有効だと私も思います。
小林秀雄(故評論家)も、自分で行おうとするよりも外的な事件によって自分が動かされる方がむしろ有効で効果がある(以上趣意)と述べていました。
(9)
[237]
目標の明確化と行為の標準化
名前:カメ
投稿日時:08/04/02(水)
この頃こちらで、「自由」という問題を見て、改めて面白い問題だと思いました。何が自由かということもですが、どうすれば得られるのか、あるいはどうなったときにそれを得られたとするのかも、重要と思われました。私個人としてはですが、この問題、なまじ真面目に取り組もうとすると、かえってコケやすいと感じています。
(10)
[957]
RE:ドストエフスキーにおける
「自由」の問題
名前:確かな現実
投稿日時:10/12/02(木)
自由とは、ストレスが日常に全てなくなること。
周りの人を、みんな神様みたいに、いい人と思えばストレスはなくなります。
自由な行為は、あとで自分自身に結果が返ってきますから、こちらもストレスが一生あとから来ない行為を日頃するという事でしょうネ。
行動を起こすか、それとも控えるか。行動の起こし方、大きさ、種類、時期、方法などが、究極まで試行錯誤する時には、へとへとに疲労困憊しますね。
各個人の勝負どころというか、各個人の個性が著れるところというか、各個人の色彩が著れるところでしょう。
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