ドストエフスキーと動物
(1〜6)
投稿者:
羊山羊、Seigo
(1)
[320]
ドストエフスキーと動物
名前: Seigo
投稿日時:08/05/17(土)
総合ボードで以前、羊山羊さんからドストエフスキーの動物好きのことや作中に登場してくる動物(蜘蛛なども含める)をめぐっての書き込みがあり、興味深い事項なので、このたびこちらにトピ「ドストエフスキーと動物」を立て、羊山羊さんの書き込みを以下に転載しました。
引き続いて、情報・意見交換していきましょう。
(2)
[321]
ドストエフスキー氏は動物好き?
名前:羊山羊
投稿日時:08年04月18日
幼児信号はエソロジーのテーマですが、それに関連して、D(ドストエフスキー)氏は動物好き(特にイヌ)だという印象を私はもっていますが、いかがで しょうか。『虐げられた人々』のネルリのお祖父さんにはイヌが寄り添っていました。『百姓マレイ』に出てくる子供は幼いD氏でしょうが、ヴォルチョークという名のイヌを飼っていたことが分かります。尊い思い出に出てくるのですから、イヌは心の友達だったのでしょう。この話は『死の家』で回想されましたが、
その『記録』にはしばしば動物が出てきます。イヌがD氏のつらい監獄生活を慰めてくれたことが分ります。さらに、監獄の動物のためにわざわざ一章設けているほどです。登場する動物たちは生き生きと描かれ、記述は正確です。
D氏は単なる動物好きではないでしょう。D氏の小説には鞭打たれるウマの話がしばしば出てきます。『作家の日記』にロシアの動物愛護協会10周年によせた文がありますが、動物を優しく扱えば、それは他人に接する態度に波及し、子どもの教育にも好ましいという意味のことが書いてあったと記憶します。その逆を行ったのが「父親」殺しのスメルジャコフで、子供の頃ネコを殺して葬式ごっこをし、ジューチカに針の入ったパン切れを食べさせてイリューシャを絶望させました。動物への態度は重要な意味を持つというD氏の指摘ですが、わが国で起った奇怪な事件にも当てはまるように思います。いかがでしょう。
(3)
[322]
>ドストエフスキーの犬好き
名前:Seigo
投稿日時:08年04月19日
羊山羊さんが上で述べているように、作中また日常に現れたドストエフスキーの動物好きや動物への愛情やいたわり(特に『死の家の記録』の中の、オムスクの監獄の敷地内にいたベールカという名の犬をいたわるシーン)は、私にも強く印象に残っています。
子供に動物を愛護させていくことは子供の教育になるというドストエフスキーの教育論もすばらしいですね。
(4)
[323]
再び動物について
名前:羊山羊
投稿日時:08年05月04日
再びD(ドストエフスキー)氏と動物について。『カラマーゾフの兄弟』の中で、コーリャとイヌの話が出てきます。かれはスムーロフ少年がイヌの習性を滑稽だと言ったのに対し、イヌから見たらヒトの社会的な行動は滑稽に見えるだろう、と反論しています。こんなところにもポリフォニーが顔をだすのですね。サルは恐ろしい時に歯をむき出した表情をします。ヒトでそれに近いのは笑いの表情でしょうか。サルたちはヒトを観察しながら、何故アイツ等はお互いに怖がりながらベタベタしているのだろう、と不思議に思っているかも知れません。
ところで話は変わるのですが、なぜスムーロフ少年は、イリューシャが自分の墓に来てほしいと願っていたスズメ達に、煉瓦の破片を投げつけたりしたので
しょう。動物をいじめるのは好ましい行為ではないはずですが。この話は唐突に出てきて、奇妙な感じがしました(続編への布石なのでしょうか?)。最近、 桜、チューリップ、パンジー、牡丹の花が傷つけられ、白鳥、黒鳥が撲殺されたことがニュースになっています(最後の件は中学生の仕業なのですね)。なんと
も嫌な気分です。
(5)
[325]
ドストエフスキーとクモ
名前:羊山羊
投稿日時:08/05/18(日)
また、D(ドストエフスキー)氏と動物の話です。D氏はクモが嫌いなのでしょうか。『死の家の記録』では、言いがかりをつけ、D氏を窮地に追い込んだ乱暴者の怪人・ガージンは巨大で醜悪なクモのようだと表現されています。『罪と罰』で(これまた怪人の)スヴィドリガイロフは、「永遠」とは田舎の風呂場にかかっているクモの巣のクモだなどと、とんでもないことを言っています(それにしても、よくマアこんなことを思いつくなと、ヘンに感心してしまいます)。
『白痴』ではイッポリートが、ロゴージンの家でみたホルバインの絵の印象から、キリストをも飲み込んでしまう、無意味で無慈悲な「自然の法則」をやはり巨大で醜悪なクモにたとえています。『悪霊』ではスタヴローギンが、ゼラニウムの葉にいるクモによって、クロード・ロランの絵による幸せで尊い「黄金時代」
の夢を破られています。ゼラニウムの葉のクモは、彼がマトリョーシャの縊死を待っているときに見つめていたものでした。そして、スヴィドリガイロフ、イッポリート、スタヴローギンは自殺をしました(哀れなイッポリートは未遂ですが)。こうしてみると、D氏にとってクモはキリストやロシア正教に対立する、恐ろしい、不気味で不快なものの象徴のようです。日本人にもクモは同様に不気味な印象を与えますが、米国でスパイダーマンが流行るのはどういうことか。現代の大都会のターザンみたいですね。
(6)
[444]
動物愛護・福祉、動物権利
名前:羊山羊
投稿日時:08/12/09(火)
イワンは「大審問官」を語る前に、多くの幼児虐待の事例を語る。そしてドストエフスキーがフォン・ヴィ
ジン夫人への手紙で表明した、キリストへの賛美とは正反対の表現で次のように述べる。「たとえキリストが正しくても、自分は幼児の苦しみとともにとどまる」と(うろ覚えです)。
動物を愛する「心優しい人」の中には、ヒトと他の動物の間に区別を設けるべきでないと考える人たちがいる。これらの「心優しい人」たちにとって、殺人と
食用のために牛や豚を殺すことは同列となる。人が殺さるべきでないのなら、動物も同じ権利を持つ、と。自らを律する「心優しい人」たちは菜食主義者になり、実験動物の犠牲の上に築かれた医療や薬品を拒否する。
イワンは子供をイヌに引き裂かせた領主を許すことができない。「心優しい人」たちの中にも、動物を「虐待」する者を許せない人たちがでてくる。これらの
「心優しい人」たちは実力で動物を「解放」したり、そのように動物を扱う人たちを攻撃したりする。中には傷害にまで発展した事例もあると聞く。
幼児を動物に置き換えると、ドストエフスキーの小説の世界に通じるところがあるように思う。これらの「心優しい人」の考えは観念的な面が強く、その観念に
行動が支配されている。私は肉食をするし、ヒトが種の維持のために開発した畜産、水産、牧畜、農業などのシステムを素晴らしいものと思う。私は病気になれ ば医者にかかるし、薬も飲む。医学、薬学、その他さまざまな産業が達成したものに敬意を払う。一方で私は動物を含む自然が保全、保護されることを好ましい
と思うし、家畜や実験動物の苦痛はできうる限り減少させることに賛成である。真っ白でも真っ黒でもない灰色である。要するに、動物愛護、動物福祉の立場 で、「心優しい人」は生ぬるいと攻撃するかもしれないが、妥当なものだと思っている。
動物権利の主張には素朴な疑問が沢山あるが、ドストエフスキーから外れてしまうので、この辺で終わりにします。
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