『悪霊』のキリーロフ
のこと(彼の人物像・思想)
(1〜10)
(更新:24/11/18)
投稿者:
ka、Seigo、
エハリ・バカーチン、大森
(1)
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『悪霊』のキリーロフ
のこと(彼の人物像・思想)
名前:Seigo
投稿日時:08/01/27(日)
『悪霊』の登場人物の一人キリーロフの人物像や彼が考えていたことを、あらためて、検討し、批評してみたい。
当ページの開始当初の、
キリーロフについての
一連の自他の書き込み
も叩き台にして、皆さんのキリーロフ観も、聞かせて下さい。
***
【キリーロフの考えについての
覚え書き(1)】
「神はない、けれど神はある。」
(キリーロフの言葉)
キリーロフは人間たちの内にある「神」の「観念」を撲滅さえすれば、人間や世界は一変すると考えていたようだが、それは、実際どういうことだったんでしょうかね。
彼の考えによれば、
内なる「観念」に過ぎない(?)「神」を撲滅すること(彼は自らによる自殺によってその端緒を開こうとする)によって、人間や社会(自然も?)は本来のおのれの「独立不羈」「自由」(神の観念に支配されているために人間は不自由になっているのだ)を取り戻すということ?(その時には人間は生理的肉体的に変化する、そして、人神が現れる、と彼は述べてますね。)
(2)
[3]
キリーロフの考えのこと
名前:Seigo
投稿日時:08/01/28(月)
【キリーロフの考えについての
覚え書き(2)】
『悪霊』の中でキリーロフがおし進めていった考え(人神思想、自殺哲学)を、相互の連関をおさえてまとめてみるなら、以下の通りでよいでしょうかね。
「神は人間のうちにすみついている観念に過ぎず、人間の外に実在するものではない。→イエスの最期をはじめ、この社会の数々の不条理から言っても、神は実在しない。かつ、人間の内なる神なる観念を撲滅したとなると、人は「自由」であり、自己の意志(我意)がすべてとなる。→我意の最高の表示形態は自らの自殺である。また、人は今の人間のままでは我意をおしすすめる結果としての限りない自由とそれに伴う苦痛、そして、死への恐怖にはとうてい耐えられない。→神がないという立場に立つ人間は、その限りない自由と苦痛と死の恐怖を克服して自ら自殺するなら、その結果として「神」になるはずだ。→自分は自殺したい(自殺しなければならない)。」
(以上、キリーロフの考えの展開の趣意)
そして、結局は、ドストエフスキーは、
・人は、無神論者であるとすると、その立場を誠実(真剣)におしすすめていく
なら、しまいには自殺していくはずだ。
・キリーロフ自身は、自殺には至ったが、考えていた通りには自殺を為し得
なかった(変哲のないぶまざな自殺に終わった)。
という滑稽(奇妙)で喜劇的(悲劇的)な結末を示すことによって、
・無神論者の立場とありようの非誠実さ(非真剣さ)、生ぬるさ(中途半端さ)
を痛烈に風刺しようとした。
そして、
・神は実在するという立場に大なり小なり立つことにより、人は、以上のような末路には至らずに済むのだ(生を肯定して安心のうちに生きていけるのだ)。
とドストエフスキーは言いたかったのだ、ということでしょうかね。
(ドストエフスキーは、『未成年』で、マカール老人に、
「神のない生活は――苦しみでしかないのだよ。」
と言わせている。)
(3)
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キリーロフの人物像のこと
名前:Seigo
投稿日時:08/01/28(月)
【キリーロフについての
覚え書き(続)】
さらに、
以上のような彼の考えとその考えの実行と、
・持病のてんかんにおける至高体験にも基づき、生や自然の全(まった)き肯定者(讃美者)であり、この世における「永久調和の瞬間」の存在を熱く語っていること
・自部屋には神棚があり時に灯明及びお祈りをあげているらしいこと
・目に光りがなく、お茶を飲みながら自部屋内をぐるぐる巡りつつ思索にふけることの好きな夜更かし人間であるが、一方で、最近4年ぶりに外国から戻ってきて建築技師の職を得ており、日々運動をおこない身体の鍛錬も怠っていないこと
・非社交的でありいまだ独り身であるが、子供好きであり、訪れてきた人に対しては親切で世話好きであること
・過去にスタヴローギンから思想上の感化を受けていること
・親しかったシャ−トフとともに船でアメリカに渡ったことがあり、元は、社会主義者で社会革命運動に参加していたらし
いこと
などのこととは、どう共存できていたのか、といった問題があります。
そのあたりのことについても、彼の人物像に関してそのほかの重
要と思われる点の指摘も含めて、皆さんの方で意見があれば、聞
かせて下さい。
(4)
[5]
RE:『悪霊』のキリーロフの
こと(彼の人物像・思想)
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:08/01/29(火)
Seigoさん、今晩は。
先日、「伝言・雑記」板にも少し書いたのですが、ビートルズのアニメ映画『イエローサブマリン』に、バキューム・モンスターという怪物が出てきます。この怪物は、身の周りにあるものを手当たり次第に吸い込んでしまうのですが、ありとあらゆるものを吸い尽くし周囲に何も無くなってしまうと、世界そのものまで吸い込んでしまい、いよいよ外部に何も吸いこむ物が無くなってしまうと、最後には自分自身を吸い込んで一切を無に帰してしまう――という困った生き物なのです。僕はこのバキューム・モンスターに、先日は自殺願望のメタファーを感じたりもしたのですけど、「自身を無に帰することで世界の一切までも無に帰する」というバキューム・モンスターは、考えてみればキリーロフにも似ているなあ……と思いつきました。キリーロフは、要するに、この不条理に満ちた世界そのものを無に帰したかった――そういう意味で、キリーロフは、不条理故に神の創ったこの世界を拒絶したイワン・カラマーゾフの先駆的人物であると考えることも出来るでしょう。不条理に理詰めで対抗していけば、キリーロフのように自殺するか、イワン・カラマーゾフのように発狂するしかない――ドストエフスキーはそのように考えていたのかも知れません。
尚、映画『イエローサブマリン』では、バキューム・モンスターが世界の全てを吸い尽くし、挙句の果てに、自分自身をも吸い込んで一切を無に帰した後の、何処にも無い世界(Nowhereland)で、ビートルズ一行は「何処にも無い世界で、何の役にも立た無い計画を、誰のためになるでも無いのに考えている」という孤独な哲学者ジェレミーと出会います。ジェレミーの地下室人にも通じる孤独な道化ぶりに同情したビートルズ一行は、彼のために“Nowhereman”を歌って上げるのですが、この場面は、印象的なシークエンスの多い映画『イエローサブマリン』の中でも、屈指の名場面になっていると思います。
バキューム・モンスターが一切を無に帰した世界に現われるのがジェレミーであるということを意味深に受け取れば、バキューム・モンスターとジェレミーは分身的関係にある、と考えることも出来るかも知れません。バキューム・モンスターとジェレミーが分身関係にあるという解釈を、更に強引にドストエフスキーに結び付けると、世界を否定することで神に抗議しようとする潜在的自殺志願者キリーロフ&イワン・カラマーゾフと、世界の全てを無視して孤独な夢想に耽る地下室人も又、分身関係にあると考えることが出来るであろう……などと、思いつきました。
『イエローサブマリン』の孤独な夢想家ジェレミーは、ビートルズと出会い、ビートルズとともに憂鬱の軍団ブルー・ミーニーズと戦い、これを音楽の力で折伏し、ついに世界との和解を果たします。このビートルズの教えを三度強引にドストエフスキーへとフィードバックすれば、キリーロフやイワン・カラマーゾフ的な世界否定の果ての孤独な夢想を救い、世界との和解にまで導くのは、やはり、音楽(芸術)しかあるまい。ちなみに僕は、『イエローサブマリン』のジェレミーに、並々ならぬシンパシーを抱いています。
――以上、いつものように甚だしく脱線しながらのキリーロフ論になりましたが、ドストエフスキーと同時代に活躍したロシアの思想家でチェルヌイシェフスキーなんかと並んで後のナロードニキ運動に多大な影響を与えたラヴロフという思想家が、そもそも人神思想のルーツらしいですね。キリーロフは、元々ラヴロフの思想に対する諷刺として考え出された人物だったのではないかとも思います。実際、当時、ラヴロフの思想に影響を受けたロシアの若者がアメリカに渡り、社会主義的なコミューンを営んだりもしていたそうです。
ラヴロフのことはもっと詳しく知りたいと思っているのですが、どうも日本語の文献が少ないんですよね。誰かラヴロフに就いて詳しい方はいらっしゃらないでしょうか?
(5)
[9]
>[No.5]モデルとされ
るラヴロフのこと
名前:Seigo
投稿日時:08/01/29(火)
他の作品を引き合いに出してのキリーロフ試論、ミエハリさんの面目躍如であり、おもしろいですね!
>ラヴロフのこと
中村健之介氏が自著(たしか編著『ドストエフスキー裁判』)で、キリーロフにはモデルありということで、そのラヴロフについて触れていたと思います。(ミエハリさんのラヴロフの取り上げは中村氏のその言及を踏まえたものでしょうか?)
あとで中村氏のその言及を確認してみて、ラヴロフについて詳しく述べていれば、ここに紹介してみます。
(6)
[11]
キリーロフのモデルのこと
名前:Seigo
投稿日時:08/01/30(水)
>[9]
>中村健之介氏が自著(たしか編著『ドストエフスキー裁判』)で、キ
>リーロフにはモデルありということで、そのラヴロフについて触れ
>ていたと思います。
は、うろ覚えで言ってしまい、一部、間違いでした。
私の方で確認していたキリーロフのモデルは、ラヴロフでなくて、
K.I.チムコフスキー
(ペトラシェフスキーの会」に参加していたメンバーで内務省官吏。
ドスト氏と共に捕らえられ銃殺刑未遂まで至った人物。)
でした。
(中村健之介氏の編著『ドストエフスキー裁判』ではチムコフスキー
の経歴及び彼に関するドスト氏の証言が紹介されていただけで
あり(p164〜p165、p205〜p207)、
モデルはチムコフスキーだろうとする説は他所〔『ドストエフ
スキー』(ロロロ伝記叢書。ラヴリン著・平田次三郎訳。理想
社1983年新版。p122。)〕で得たものでした。)
キリーロフのモデルには諸説があるということになりますね。
ラヴロフとする説はどこで述べられていた説か、今度、教えて下さい。>ミエハリさん
なお、
キリーロフの考えのどこまでがモデルのものでどの部分がドスト氏の考
案(独創)なのか、についても知りたいです。(少なくとも、てんかんの持
病というのはドスト氏による独自の設定でしょうね。)
(7)
[12]
ラヴロフと神人思想
名前:ka
投稿日時:08/01/31(木)
ナロードニキの思想家ラヴロフに関しては、佐々木照央『ラヴローフのナロードニキ主義歴史哲学』(彩流社)という大変ごつい本が、現在日本語で手に入る最も手厚い(というか唯一の?単行本としての)研究書であるようです。
ラヴロフは一時期ドストエフスキーと同じサロンに出入りしたり、『白痴』の「美しい人」の構想を批判したりと、同時代人として直接・間接の精神的交流があったようですね。彼の主著『歴史書簡』(1868-69)では、個人レベルの意識変革による精神の革命の必要性が打ち出されており、この系統の思想を実践的に発展させたのが、アメリカ移住してコミューン建設を試みた「神=人」思想のサークルだった…といった感じでしょうか。ラヴロフ本人がキリーロフのモデルと見られている、というわけではないのかも。
※なお『歴史書簡』は、北海道大学の『スラヴ研究』誌の最初のほうの号に日本語訳が分割掲載されていて、今ではPDF版をオンラインで読むことができます。ご関心のある方は検索してみてください。
>ミエハリさん
ここでお礼を言ってしまいますが、『イエロー・サブマリン』のご紹介、楽しく読ませてもらいました。今度レンタルビデオ屋なんかで目に入ったら、ぜひ借りて観てみます
(8)
[14]
キリーロフ君、君のところにはい
つもお茶があるね(シャートフ)
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:08/01/31(木)
Seigoさん、Kaさん、ラヴロフに就いての補足、ありがとうございました。
僕がキリーロフの人神思想の元ネタがラヴロフの歴史哲学だと知ったのは、たしか中村健之介氏の『永遠のドストエフスキー』(中公新書)に記述があったからだった……のような気がするのですけど、記憶が曖昧です。今手許に中村氏の『永遠のドストエフスキー』がないので、後日確認してみようと思います。
Kaさんが紹介して下さった佐々木照央先生の『ラヴローフのナロードニキ主義歴史哲学』(彩流社)は、以前、故田中駢拇さんとの間でゼムストヴォ論争をしていた頃に、19世紀当時のナロードニキ運動の実態を知りたくて、図書館で手にしてざっと目を通したことがあるのですが、何せ、Kaさんの書かれているとおり「大変ごつい本」なので、その内容の一割も摂取することは出来なかったと思います。いずれ、もう一度じっくり読んでみたいと思います。
ちなみに、佐々木照央先生は、以前ドストエーフスキイの会で「ドストエフスキーの喫茶」というお題の講演を行なっていて、その講演を僕も拝聴させて頂いたことがあるのですが、「喫茶」という習慣が東洋から西洋へと伝わり、やがてそれがロシアにまで伝播した歴史的経緯を踏まえつつ、日本の茶道とも絡めて、ロシアに於ける喫茶の習慣を主にドストエフスキーの小説に取材しながら考察した、実に面白くスリリングな講演でした。この講演で特に注目されていた人物が、何を隠そうキリーロフで、皆さんご存知のとおり、キリーロフはドストエフスキーの人物中でも特にお茶の好きな人物として設定されています。臨月のマリヤが自分の許へと帰ってきた時のシャートフも、お茶を貰うために、真っ先にキリーロフを訊ねます。
佐々木先生は、ステパン氏がアルコール中毒であるらしいことと対比して、カテキン中毒であるキリーロフの性格を分析していました。アルコールが人の心を酔わせ高揚させるのに対して、お茶は人の心を醒ませ鎮静させる――こういうアルコールとお茶の効能の違いをステパン氏とキリーロフの人物像の違いへと敷衍し、キリーロフの人神思想を彼のお茶好きな性格と絡めて考察する佐々木先生の講演は、なかなか刺戟的で卓抜なユーモアを感じさせるものでした。
尚、何かとキリーロフと並べて論じられることの多いニーチェも、『この人を見よ』で、
「いくぶんでも精神的な天性の持ち主たちのすべてにむかって、声を大にしてアルコール類の厳禁をお勧めする。水で十分である」(ニーチェ『この人を見よ』)
と語り、更には、
「――間食はいけない、コーヒーもいけない。コーヒーは気分を暗くする。紅茶は朝だけなら身体によい。量を少なく、ただし濃くして。紅茶はほんの少しでも薄すぎると、かえって非常に有害で、一日じゅう気分をすぐれさせぬ」(同上)
と主張しているように、なかなかの紅茶マニアだったことが窺えます。
キリスト教的な神概念へ果敢に挑戦して破滅したキリーロフとニーチェが、ともに並々ならぬお茶マニアだったということに、僕は一種のオリエンタリズム的深読みをしてみたくもなります。――すなわち、キリーロフとニーチェは、ともに東洋原産のお茶の愛好家であったからこそ、キリスト教の神を超える「信仰」を夢想し得たのである、などと。
以上、牽強付会の観もありますが、スタヴローギンとキリーロフの対話は何やら禅問答じみていますし、キリーロフの思想の背後にラヴロフの歴史哲学だけでなく、東洋思想の影を予感するのも、又一興であると思います。日本の茶道の創始者というと千利休ですが、秀吉との精神戦の中でやがて自決に追い込まれた利休とキリーロフも、少し似ているような気がします。秀吉と利休、ピョートルとキリーロフ。
あと、ラヴロフというと、ドストエフスキーの後期短編『鰐』の中にその名前が出てきていました。『鰐』は鴎外が邦訳したことでも有名ですが、現代日本語で訳されたものとしては、かのcoderatiさんの試訳がネット上で読めますので、紹介しておきます。
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RE:『悪霊』のキリーロフの
こと(彼の人物像・思想)
名前:大森
投稿日時:08/02/01(金)
キリーロフは、好きですね。ピョートルと自殺寸前のキリーロフの会話は、真剣な思想探求とグロテスクなユーモアに満ちていて何度読んでも読み応えがある。
私がキリーロフについて最初に感じたのは、なぜ、彼は、自分の思想を文章にして発表しないのかということです。自分の信じる思想があって、人に伝えたいならば、まず、文章にして、どこかの雑誌に投稿すべきでしょう。そうでなければ、自殺したって、その真意は誰にも伝わらない。全くの無意味な死です。なぜ彼は人に思想を伝えようとしないのか。それが、私が最初に読んだときの疑問でした。
しかし、聖書を読んで分かりました。キリーロフは、「顕はれる為ならで、隠るるものなし」と聖書の言葉を引用しています。
イエスは自分の著作を一つも書かず、十字架の上で罪人としてその時代の人間の目には全くの無意味でしかない死に方をしました。真意を誰にも理解されることなく死にました。
しかし、その死は、その後の歴史を動かすほどの多大な影響を持ちました。キリーロフは、おそらく自分の死をイエスの十字架と重ね合わせて見ています。イエスの死のように自分の死が歴史を動かすほどの影響力を持ちえると思って死んだのだと思います。
しかし、イエスの死が歴史を動かせたのは、神やイエス自身の復活など超自然な力があるという信仰があるがゆえです。
ところがキリーロフは無神論なのですから、一体誰が、キリーロフの崇高な理想を伝えるのでしょうか?そこにいてキリーロフの思想を聞いているのはいるのは、政治陰謀家でキリーロフの思想を軽蔑しているピョートル(ペテロ)だけです。その辺が矛盾しているけど、真剣なキリーロフには目に入らない。
こんなところにもキリーロフの無神論でありながら宗教的、かつ一途で滑稽な姿が感じられます。
キリーロフは、子供とボール遊びをしたり、健康のため体操したり、スタヴローギンを慰めたりと愛すべきキャラクターですね。シャートフが「君は無神論的な自殺哲学さえなければ、本当にいい奴だよなあ」としみじみ言っているのも分かりますね。
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TeaForOne♪
名前:ミエハリ・バカーチン
投稿日時:08/02/01(金)
皆さん、今晩は。
先日ご紹介した佐々木先生の「ドストエフスキーの喫茶」という講演の要旨は、こちら(Seigo記:※リンク先に見当たらず)でテキストを見つけたので、一応、リンクを貼っておきます。
中村健之介氏の『永遠のドストエフスキー』(中公新書)は、今日、本屋でざっと立ち読みしてみたのですが、ラヴロフに関する記述を見つけることは出来ませんでした。キリーロフの人神思想がラヴロフの歴史哲学を元ネタにしたものであろう――という記事を何処かで読んだのは、ここ3年以内のはずで、この3年で読んだドストエフスキー及びロシア文学関係の本はそんなに多くはないはずですから、そのうち何処でキリーロフとラヴロフの繋がりを示唆した記事を読んだかは思い出すことが出来ると思いますので、その時にでも、又改めて、キリーロフとラヴロフに就いて言及した文章はご紹介させて頂こうと思います。
ところで、ドストエフスキーの『鰐』に就いてですが、coderatiさんの訳がどれだけ秀れているかどうかの議論は他日に譲るとして、ゴーゴリ風の不条理短編を狙ったこの作品は、小説としてはそんなに出来のいいものだとは個人的には思いませんが、諷刺家ドストエフスキーの旗幟が鮮明に示されているというだけでも、なかなか興味深い一編だとは思います。「パサージュ=ショッピングセンター」で展示されている貪欲な外来種の「鰐」は、言うまでもなく資本主義、ことに外国資本のメタファーでしょう。ラヴロフへの皮肉な言及の仕方からしても、この短編が基本的には進歩思想(=開国思想)への諷刺を狙って書かれた、攘夷的なエトスとパトスを作品の底に潜めたものであることは容易に読め取れます。ドストエフスキー自身は、『鰐』に於けるラヴロフへの揶揄的な言及の仕方や、『悪霊』に於けるキリーロフの人神論の描き方からして、どうやら彼らに対して、その心意気は汲みつつもそれ程強い共感は抱いていなかったような気がします。ただ、佐々木先生の「喫茶趣味=東洋神秘主義のメタファー」という読みを踏まえると、ドストエフスキーは、キリーロフを単なる否定的人物像として描こうとしていたようにも思えません。実際、『悪霊』を読んだ人の大半は、キリーロフに好意を抱くことでしょう。キリーロフ、一筋縄ではいかない人物です。
あるいは、進歩主義的なラヴロフと東洋主義的な喫茶趣味の止揚を目指してキリーロフという奇妙な人物は構想されたのであろうか、などといつもの如く愚考した次第でありますが、キリーロフを考える際には、彼の分身的人物であるシャートフのことも、やはり念頭に置かねばならないでしょう。
キリーロフ(進歩派)とシャートフ(スラヴ派)という一対の人物によって、ドストエフスキーは19世紀ロシア人の信仰を巡る魂の分裂状態を象徴的に描こうとしたのではないでしょうか。そう考えた時、シャートフの、
「キリーロフ!もし……もし君があの恐ろしい空想をなげうつことができたら……あの無神論の悪夢を捨てることができたら……ああ、それこそ君はどんなに美しい人間になるか、わからないんだがなあ、キリーロフ君!」
という台詞が、より一層胸に迫るものとして響いてきます。
僕は『悪霊』の直接的な続編が『未成年』であり、『悪霊』と『未成年』の人物は、それぞれ、
・スタヴローギン→ヴェルシーロフ
・シャートフ→マカール老人
・マリヤ・シャートワ→ソフィア・ドルゴールキー
・シャートフとマリヤの息子→アルカージー
という風に対応しているように思っています。そして、そう考えると、『未成年』に於けるキリーロフの発展型としては、アルカージーの悪友クラフトを挙げることが出来るでしょうか。更にそして、キリーロフ〜クラフトと受け継がれた人物像は、『カラマーゾフの兄弟』に至り、イワン・カラマーゾフ及び、その小さな分身であるコーリャ・クラソートキンという人物像で発展的に描かれているようにも思います。
……以上、いつもの如く纏まりが悪いですが、キリーロフの人物像は、シャートフとの対比によって、より鮮明になってくるのではないかと愚考する次第でありました。
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