『白痴』のテーマ
(1〜10)
(更新:24/11/19)
投稿者:
Seigo、ちちこふ、大森、
ぼんやり読者、竜之介、
確かな現実、まゆ
(1)
[289]
『白痴』のテーマ
名前: Seigo
投稿日時:08/05/05(月)
ドストエフスキーは『白痴』で、結局、何を描きたかったのでしょう。
『白痴』全体の主なテーマについて、意見交換していきましょう?
* * *
まずは、
小説『白痴』の解説の際に諸氏によりたびたび引用される、
ドストエフスキーが自ら語った、
その中心のイデーは、完全に美しい人間を描くということです。
(中村健之介訳。「完全に美しい人間」に圏点あり。)
という言葉
(「ロシア報知」(1月から『白痴』の連載が開始)に『白痴』の最初の部分を送った一週間後のA・N・マイコフ宛て(1868年1月12日付け)の手紙に書かれた言葉。)
は、どの程度、この小説のテーマとして有効なのか、
まず、これについて意見がある人は、聞かせてほしいです。
(作者としては最終的には上のような意図で出発したのでしょうが、私としては、完成した小説は、ムイシュキン公爵の造形の結果から見ても、造形に失敗したというよりも、上記の作者の意図から少なからず外れてしまったのではないかという思いがずっとありました。研究者たちは上の作者の言葉をあまりに重視し過ぎているのではないかという思いもあります。
ムイシュキン公爵は果たしてそういった人物として完成されたのかどうか、皆さんからの意見をあらためて聞きたいです。)
(2)
[304]
RE:『白痴』のテーマ
名前:ちちこふ
投稿日時:08/05/09(金)
>Seigoさん
4大小説(『未成年』は未読です、すみません)の中で私には『白痴』が一番読みにくかったです。部分的にはすばらしい部分が随所にありますが、他の3作品みたいに「引き込まれる」感じはラストを除き希薄だった、と思います。どことなく煮え切らない感じです。
『デヴィッド・コパーフィールド』や『ドンキホーテ』や『カンディード』や『ガリバー旅行記の馬の国』みたいには焦点が合ってない感じがして、残念です。
そもそも「完全に美しい人間」というのが難物です。「完全に」を意識し過ぎると生きた生身の人間らしくなくなって来ます。「完全に美しい人間」よりも「誇張されて美しい人間」の方が逆にうまく行きそうではないですか? 例えば『白痴』の最初の方でムイシュキン公爵の思い出話に出て来るマリーは「驚くほど美
しい受難者」に見えます。私にはなぜあの話があそこで出てくるのか、他の部分とどうつながるのかよくわからないのですが…(あの話の聞き手であるエパンチ ン家の女性陣が誰一人「泣かなかった」のが象徴的ですが!)
皮肉な見方をすると、ムイシュキン公爵タイプの登場人物は「醜さが露見するのを恐れて言動を控えている不自然さ」が出て来てしまう… なんだか、そういう
感じです。たとえ「醜い部分などない」という設定にしたところで、ないからこそ余計「もしかしたら隠しているだけじゃないか」とか「そんな人現実にはいな いよ」という計算外の印象をもたらします。徹底的な悪者がふと行ってしまう一回限りの善行の方が自然でリアルだったりもします。
『白痴』に於いて、ドストエフスキーは「前人未到のテーマ」を狙ってしまったのではないでしょうか。そして、その前人未踏のテーマは大天才には克服可能なのでな
く、誰にも克服出来ないのではないでしょうか。ヴォルテールのカンディードみたいにもともと「美しい人」でありながら、ひょんなことから数人の人を殺し、 また「美しい人」に戻るというようなパターンはリアルになり得ても「何も悪いことはしない美しい人」は相当難しいのでは…
現実の世界の中でもガンジーやマリア・テレサは「どこかリアルでない」印象を私には与えるし… もちろん、彼らの言動はおおいに尊敬しますが… 現実に存在した人ですら「善」にこりかたまるとリアルでなくなる! なんてことでしょう?
ゴーゴリも『死せる魂』第三部は書けなかったし…(もちろん、チチコフは「完全に美しい人間」からほど遠いですが…)
極めて個人的ですが、また、極めて勝手ですが、『白痴』のサイドワークとして「マリーを主人公とした中編」を書いてもらいたかったです。『永遠の夫』ぐら
いの長さで… 『白痴』からあの挿話を抜いたらどうなるのか、ちょっと心配ではありますが… 実際、黒澤明の映画ではマリーを含めいろいろ抜かしておりま す… あの映画も「傑作だ!」とも言えないし「駄作だ!」とも私には言えません。でも、映画を見るのに時間を費やすのなら、私ならグリフィス監督の『散り
行く花』を見てしまいます。どうしてあんなものをグリフィス監督が作ったのか知りませんが、あれはディキンズの世界よりドストエフスキーの世界に近いです。(趣旨 は全く異なりますが、エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督の『グリード』もドストファンには受けるのではないでしょうか?)ドストエフスキーの作品をそのまま映
画化するより、全く無関係と思われる映画がドストエフスキー的だったりする…というのは面白い現象です! 世紀の大監督ともなればこそっとドストエフスキーの作品を読んで
いたのかもしれませんが… 「子供の頃に読んでいた」なんてのが完全に消化されていて一番いいのかもしれません。
(3)
[341]
RE:『白痴』のテーマ
名前:大森
投稿日時:08/06/14(土)
本当に久しぶりに白痴を読みかえしました。高校のころ読んだ時は何も分かってなかったと思いました。記念に感想を書きます。
ムイシュキン公爵を美しい人としてドストエフスキーは書きたかったというのは有名な話ですが、はたしてどうでしょうか?私から見ると「ムイシュキン公爵は、善良な人であるのは間違いないけど、遺産でブラブラ遊んで恋愛しているだけじゃん」という感想が頭を去らなかった。
私は、善をなそうとしているいろんな人を見てきた。
児童虐待防止の対応で日夜、神経をすり減らしている人、会社の中で公正を貫こうとして上司ににらまれてつらい立場に立った経験のある人、東南アジアの国
に小学校を建てる運動のため献身している人、アフリカで働き戦乱に巻き込まれた経験もあるカトリックのシスター、刑務所に入った経験のある元やくざたちが キリスト教を信じて非行少年や苦しむ人々のため相談活動、布教活動をしているミッションバラバの人たちなどいろいろな人たちに接してきた。
そうした人たちに比べると、私は、ムイシュキンについて、「遺産で遊んで暮らして、恋愛しているだけ。楽でいいよな」と感じる。
確かに人格障害者ばかりの登場人物の暗い話を忍耐強く聞くのが大変とも思います。でもね・・。 「余裕があるならば、苦しんでいる人のために働けよ。
美しい人ならば、楽してるんじゃないよ。」と言いたい。ぶらぶらしている公爵に比べれば、家族のために働いているレーベジェフだって結構立派じゃんと思っ た。
それに比べてカラマゾフのアリョーシャの方が立派だ。
恋愛で二人とも好きなんていうのも無責任だし(本音は分かるけど相手にとって迷惑だよね)、プロポーズしたアグラーヤを捨ててナスターシャに走るのもどうかと思われる。
それからもう一つ分からないのはムイシュキンの信仰。
私のようなキリスト教信者からすると、美しい人というのは、自分の弱さや醜さを知って、神に寄り頼む人だ。祈る人だ。たとえばアシジのフランチェスコのように。
ムイシュキンは一度も祈っていない。イポリットが自分の死について発言を求めた時に、(新潮文庫・下381ページ)なぜ、イポリットの心の平安を神に祈
らないのか。イポリットに対してだけじゃない。ナスターシャやラゴージンやアグラーヤやレーベジェフや将軍の幸せと導きを神に祈らないのか。ムイシュキン は興奮して癲癇発作を起こす前にカトリック批判をする以外、神についてキリストについて語らない。神に祈らない。彼はどういう信仰を持っていたのか、わか
らない。
ドストエフスキーの信仰について考えると、彼の信仰は、論争する信仰なのかもしれない。彼がヨブ記を好きだったのは、それが徹底した神との論争の書だったからかもしれない。
そう考えるとカラマゾフの料亭「都」でのイワンの児童虐待についての饒舌は、ヨブ記を土台としているのが分かる。ヨブが不正をしない私をなぜ神は苦しめ
るのかと問うように、イワンは不正のない児童の苦しみをなぜ神は見過ごすのかと問う。ここには、苦しめる児童を救いたまえという祈りはない。なぜ児童虐待 があるのかという論争の信仰だ。
(4)
[707]
ナスターシヤは救われない
名前:ぼんやり読者
投稿日時:09/11/18(水)
(以下の内容は投稿番号706の続きになります。)
「白痴」をナスターシヤ中心に見てみると、この小説はナスターシヤを救おうとして救えなかった物語、ということができるように思います。かなり独断と偏見に満ち満ちた読みですが。
ここでは一つ、スースロワという実在の女性の記憶が絡んでいます。
スースロワは自分の肉体的な魅力を充分自覚しており(何しろ彼女がちょっと思わせぶりな態度をとるとすぐに複数の男が群がってくる)、性的な関係を持った
相手とうまくいかなくなってくると、「相手は自分の肉体を利用しただけだ」と感じ、深い憎悪を抱くタイプだったようです。
ドストエフスキーはこの女性との関係で最も憎悪された一人と思われますが、彼女の不幸な性格を憐れんでいたふしもあります。別の男に捨てられ荒れ狂う彼女
を慰めるべく、「兄と妹」の関係でイタリア地獄旅行を数ヶ月続けたドストエフスキーは、美しい女性を目の前にした自分が「兄」などというガラではないこと を思い知ったでしょう。
ムイシュキン公爵をインポテンツに設定したのは、そう設定しないとトーツキイの陵辱に傷ついたナスターシヤの精神を救えないと思ったからなのではないでしょうか。そして彼にキメ台詞を言わせます。
「あなたは艱難辛苦して、その地獄の中から清い人間として出て来られました、これだけでたくさんです。それなのに、あなたは何を恥ずかしがって、ラゴージンといっしょに行こうなどとお考えなさるんでしょう?」(岩波文庫 323頁)
結局ナスターシヤを救えない物語としたのは、何もスースロワを呪ったわけではなく、リアリストの目でもって見て、こういう女性は何をどうしても、いかに公爵を美しい人間に設定しようとも救うことができないと、最終的にドストエフスキーに思われたからかもしれません。
ムイシュキン公爵の台詞を、スースロワに対するドストエフスキーのメッセージとして読むと、これはこれで味わい深いものがあります。
(5)
[772]
RE:『白痴』のテーマ
名前:竜之介
投稿日時:10/03/29(月)
僕もこの作品には、他の長編と比べて、ある種の希薄さ(→緊迫さ)に欠ける、
という印象がぬぐいきれません。
しかし、傑作には違いなく、非常に儚く美しい作品だと思っています。
ドストエフスキイはあれだけ、
人物に生命を吹き込むのが巧みな作家であるのに、
この作品の登場人物は、なぜか抽象的なイメージが強い。
例えば結核のイポリートなど、あれだけ登場するにも関わらず、
どこか彼の重要な部分、中心部というか、核が明らかにされていない。
いえ、弁明の中で彼は個人の思想等を表明しているし、
僕がただ単に汲み取れていないだけなのかもしれませんが、
他の作品の登場人物のように、この人物にはこれ、という特徴が薄い気がするんです。
無条件に、また完全に美しい人間とは何でしょう?
僕もムイシュキンが善良である、という点は大いに認めるのですが、
彼が美を体現した人物であるかどうかは、疑問です。
神々しさを追求したなら、やはりアリョーシャの方がピンときます。
僕は作者の手配等は詳しくないので、詳細があるのかもしれませんが、
ドストエフスキイはなぜ、美しい人物を「白痴」と設定したのでしょう。
またなぜ、キリストを考慮しながら、ムイシュキンを信仰の人としなかったのか。
他の方も指摘された通り、ムイシュキンの信仰について、具体的な文章は見当たりません。
預言者ダニエルのように、祈る姿も見られない。一方的なものすら、です。
十字を切る仕草すら、なかったのでは?
それらを考えると、単純な読みですが、ここで言う美とは、
純粋さや無垢といった、自然に近い状態、つまり人の手を加えていない
(知識で飾っていない)状態を表すのかな、と思いました。
これはキリストが、天の王国は幼子たちのものである、
と述べた主旨と通ずる所はないのでしょうか…
聖書の中には確か、「神は世の知恵を愚かなものとする」という
ような言葉があったと思いますが、この点も更に取り入れれば、
神から観て美しい人物とは、無知であること、
この世の知識で固められていない人を指すのかな、とも思ったのですが。
これは憶測にすぎず、考えはまったく違う方向へと進んでいるかもしれません。
また、美しい人物を造形しようとし、ムイシュキンを登場させ、
キリストを模範としながらも、ムイシュキンが誰も救えなかった、
というのは不思議です。(少なくとも目に見える形では)
むしろ彼の登場で事はややこしくなる。(これは物語上仕方がありませんが)
これは美しさが必ずしも救出には繋がらないという、ある種の教訓なのでしょうか?
「無条件に」美しいとは。
無条件ということは、美という特質も備えていないという事なのでしょうか?
それとも、無条件=装飾がない、という意味あいなのでしょうか。
(6)
[783]
> [772] ― ムイシュキ
ン公爵の性格や信仰のこと
名前:Seigo
投稿日時:10/04/04(日)
>竜之介さん
>投稿 [772]
※、1行目の「ある種の希薄さに欠ける、」は、「ある種の希薄さ
を持つ、」の書き間違いでしょうかね? >竜之介さん
・>ドストエフスキイはなぜ、美しい人物を「白痴」と設定したのでしょう。
・>「無条件に」美しいとは。
>無条件ということは、美という特質も備えていないという事なのでしょ
>うか? それとも、無条件=装飾がない、という意味あいなのでしょうか。
ドストエフスキーは、登場人物がその性格を形成していった事情や背景を読者が納得できるように作中で丹念に説明したり描いたりするので、ムイシュキン公爵の場合に
ついても、世間知らずで相手を疑うことが無く正直であり無条件に美しい心を持つという性格を形成していった背景として、てんかんの発症により「白痴」とな り、その後の国外での療養生活の中で「おバカさん」となったという設定を必要としたのでしょう。
( なお、
上の「無条件に」は、
完全に。時と場所を選ばずにいつも。絶対的に。
などの意味でしょうね。>竜之介さん
『カラ兄弟』に、
ラキーチン「人を愛するには、何か理由がなくちゃならない。
ところで、きみたちはぼくに何をしてくれたい!」
グルーシェンカ「理由がなくたって、愛さなきゃだめだわ、ち
ょうどこのアリョーシャみたいにね」
という会話がありますが、
アリョーシャの愛の性格としての上の、
理由無しに
は、この「無条件に」と同じ意味でしょう。)
>また、美しい人物を造形しようとし、ムイシュキンを登場させ、
>キリストを模範としながらも、ムイシュキンが誰も救えなかっ
>た、というのは不思議です。(少なくとも目に見える形では)
>むしろ彼の登場で事はややこしくなる。(これは物語上仕方が
>ありませんが)これは美しさが必ずしも救出には繋がらないと
>いう、ある種の教訓なのでしょうか?
上のようなムイシュキン公爵という人物の、
・相手の内面の悩みを深く見抜き思いやりいたわり正直で相手を信
頼して寄り添っていくことで思われるという至福や安心を相手に
与える点はすぐれているが、実際の生活面で相手に満足や安定を
与えていくという面で相手の力になっていくことが不足している
という「非力性」
さらには、
・相手への信頼や善意がありながらも、結果として、相手やまわりの
人間を、むしろ、悲劇や破滅へと向かわしめていくような「魔性」
( ムイシュキン公爵は、作中で、二人の女性を同様に好きに
なるという態度を取ることで、その四角関係の中で、相手
に嫉妬や殺意や板挟みを生じさせ四者を殺害・気狂い・死・
不幸へと導いたという面あり。)
については、
川喜田八潮氏がその著『脱「虚体」論』で述べている、
こちらのムイシュキン公爵論
が、非常に鋭くて、参考になります。
ムイシュキン公爵のその無条件な心の美しさは、稀有で、ありがたいと私も思いながらも、作者のドストエフスキーは、一方で、
ムイシュキン公爵の、
・超能力パワーも含め実際面での健康的で活力のある能動的な「力」
が不足している面
・世間知らずであまりにもお人良しの面
・人を公平に愛し、人を公平に赦すという面
がまわりにもたらしていく結果を示していくことで、ムイシュキン公爵という人物の問題点を批判的に描こうとした(最近の総合ボードで話題のキーワードで言えば、一種の「パロディ」として描いた)のではないかと思います。
>またなぜ、キリストを考慮しながら、ムイシュキンを信仰の人としなかった
>のか。他の方も指摘された通り、ムイシュキンの信仰について、具体的な文
>章は見当たりません。
>預言者ダニエルのように、祈る姿も見られない。一方的なものすら、です。
>十字を切る仕草すら、なかったのでは?
鋭い指摘だと思います。
ムイシュキン公爵は作中では信仰の面ではどういった人物として描かれているか、
( たとえば、
作中でロゴージンがムイシュキン公爵に向かって「あんた、神さまを信
じているかい?」と不意に尋ねた時に、その尋ねにはすぐには答えず
に後(あと)で述べたムイシュキン公爵の言葉、
「宗教的感情の本質というものは、どんな理性的判断とも、どん
な過ちや犯罪とも、またどんな無神論とも、関係のないものな
のだ。」( 中村健之介訳。第二編の4内。)
とはどういうことなのか(特に「どんな過ちや犯罪とも関係が無い」
とはどういうことなんでしょう?)、上の言葉からうかがわれるムイ
シュキン公爵の宗教観の内実については以前から私も気になっ
ていました。)
については、今後、当トピでも、情報意見交換していきましょう。
(7)
[786]
RE:『白痴』のテーマ
名前:竜之介
投稿日時:10/04/06(火)
Seigoさん、レスを有難うございます。
一行目、僕思いっきり間違えていましたね…
「ある種の緊迫さに欠ける」と打ったつもりだったのです。
なるほど、無条件にというのは、本来持つ特質の事だったんですね。
付け加えたものでないので、無条件と言えるでしょう。
それを考えると、ムイシュキンが白痴である事は必須でしょうかね。
確かにムイシュキンは、その性質によって、善意が裏目に出てしまう。
人を癒す事が出来るが、その後の始末が出来ない。
彼の頻繁な逡巡が、かえって人を遠ざけてしまうんですね。
公平を示そうとする事が、かえって差別を生み出してしまうことも。
>「宗教的感情の本質というものは、どんな理性的判断とも、
>どんな過ちや犯罪とも、またどんな無神論とも、関係のないものなのだ。」
その言葉についてですが、うーむ…。
正直よく分からないのですが、ちらっと文脈を見、
思い当たった単純な考えは次のようなものです。
(かなり飛躍しますし、聖書を信じる事が前提です)
宗教的な必要を感じ、顧みるという点でも、人間はまさに特異な存在です。
様々な形ですが、神という概念を生み出すのは、人間だけだと言えるでしょう。
つまり人は元々、ある種の崇拝や信仰に恵まれた生き物である、
また万物の中で唯一、神を見出す種族である。
(その点に関しては聖書の創世記を見ると、人が「神のかたちに創造された」とあります。
神は目に見えないので、ここでいうかたちとは、当然人が神と同じ物質である
という意味ではなく、おそらく神の特質を受け継いでいる、という事だと理解できます)
すなわちこの場合の宗教的な感情とは、理性や思考とは無関係で、
人の自然な要求であり、万人に通用する。
(無神論というのも結局は、神を意識せずにはいられないのです)
なので罪悪や過去の経歴とは関わらない。
罪人も悔い改める事が出来るし、更正も可能です。そこには神の許しがあります。
ましてや信仰心など、個人の自由の範囲ですから。
それはまさに欲求なのです、理屈ではない。
神は母親で、僕たちは赤子です、なので神の乳を慕う。
親子の情愛と同じく当然のことなのです。
それとも、人間は信仰を抱くにあたって、特に証拠を必要とするものではない、
本人の意思があればそれで十分だ、という矛盾。…
思い付きを書いてしまいましたが、物凄く見当違いな気もします…。
(8)
[787]
>ムイシュキン公爵の言葉の〜
名前:Seigo
投稿日時:10/04/06(火)
>ムイシュキン公爵の言葉の意味(ムイシュキン公爵の宗教観・人間観・ロシア人観)
>竜之介さん
[772]の打ち間違いの箇所は、ボードの管理人の私の方で、訂正線を引いて訂正しておきました。(あとで、私の方で、その箇所は訂正し、その訂正箇所をめぐってのこれまでのこの一連のやりとりも削除します。)
* * *
>「宗教的感情の本質というものは〜」
についての竜之介さんの下の解釈及び説明には感心しました。
前回述べたように、「〜とも、関係のないものなのだ(〜にも、あてはまるものじゃないんだ)」という訳箇所にあたるロシア語原文の正確な意味合いも確認してみる必要があるようですが(ロシア語の専門の方から教示があればうれしく思います)、
竜之介さんの言う通り、
人の内に自然にある宗教的感情というものは、
・どんな理性的判断によって否定しようとしても、
・どんな無神論によって否定しようとしても
その存在を否定することはできないものであり、
・どんな過ちや犯罪をおかした人の内にも、そうでない人の内にも
本来存在するものなんだ、
( その箇所の文脈の少しあとの方で、そういったすぐれた宗教的感
情はロシア人のうちに顕著に見られるのでありロシア人のうちに
そういった宝を見出していくなど私たちはロシア人に対して成し
ていく仕事はまだまだたくさんあるとムイシュキン公爵は述べて
いることを見ても、ムイシュキン公爵は、ロシア人のうちの宗教
的感情を頭において言っていると言えますね。)
という方向での理解でよいでしょうかね。
( なお、
・「宗教的感情というものは」ではなく「宗教的感情の本質というも
のは」となっているその「宗教的感情の本質というものは」
という言い方の意味合い
や、
ムイシュキン公爵の言葉の全体では、
・宗教的感情を自然に持っている人に限て言って、
その人のその宗教的感情を誰も否定することは
できない
の意味なのか、
それとも、
・どんな人間にも本来宗教的感情というものは自然に
あるものなのだ
( 理性的判断を行う人や過ちや犯罪をおかす人
や無神論者の内にも宗教的感情というものは
あるものなのだ)
の意味なのか、
について、さらに検討が必要かもしれません。)
* * *
追記:
竜之介さんの指摘、
>確かにムイシュキンは、その性質によって、善意が裏目に出てしまう。
>人を癒す事が出来るが、その後の始末が出来ない。
>彼の頻繁な逡巡が、かえって人を遠ざけてしまうんですね。
は、ムイシュキン公爵という人物についての鋭い指摘になっていて、感心です。
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(9)
[985]
RE:『白痴』のテーマ
名前:確かな現実
投稿日時:11/05/12(木)
今回の読書でp336まで読み増してから、一ページ目へ戻って、細部まで味わいながら、読んでいるかもでありますね。
『白ち』がこんなに面白い小説であるとは、熱中・夢中でありますね。
小説のテンポと展開のドラマチックさには、「映画化」も映画監督だったら、試みたいなぁと思わせる小説であると思い至りましたね。
主人公をロゴージン&ナスターシャ・フィリポヴナと考えますね。
主人公であるからには、【魅力満載】なはずでありますね。
【魅力】を列挙したいと考えておりまね。
ムイシュキンは、『ドストエフスキーの<人間を探究したい>という命題』の一部分だけの人間性を現した人物だったのかもしれません。
「想像力・感覚・感性・直観力」のような非合理性という合理的ではない情動的な姿勢を持たない『一見無垢な人間』を出場させたのでありますね。子供は「想像力・感覚・感性・直観力」のような非合理性に溢れていますね。
(10)
[987]
RE:『白痴』のテーマ
名前:まゆ
投稿日時:11/07/28(木)
ちょっと皆現代に置き換えすぎなのでは?
今の時代に置き換えすぎ。
遊んでばかりとはいっても当時の時代背景を考えたら公爵である以上、遺産で生活することは、そんなにおかしくはない。
それに公爵は病気です。
スイスの専門家シュネィデル先生から、学問が出来ない者という診察を受けた、文字通りの白痴でもあることを忘れてはいけない。
むしろそんな白痴として、皆最初は軽んじ、哀れみ、馬鹿にしていた人々が、いつの間にか本気で公爵を大切に思い係わりたくなる。軽んじていたはずなのに、本気で対峙してしまう。
その皆を惹き付ける人柄の魅力はある意味アリョーシャより凄いと思います。
話したい、聞いてほしい、溢れかえっているそんな人たちの願いに静かに寄り添う。違うと思うことには相手に配慮しながら誠実に違うという。
病気なりに自分のすべきことに真剣に向かいすぎた挙句、何時か戻れなくなることを解っていながら、本当の狂人へ足を踏み入れ、帰れなくなってしまう。
美しい人だと思います。
一方で、病気故の子供っぽい性格、それにより不幸になってしまう人も現れること、社会的には只の白痴であるとを、皮肉な目でみているエウゲーニイ・パールイチなど、ちゃんと公爵の欠落を冷静に書いているところもよい。
カミュの本に[病身であるムイシュキンは微笑と無関心の色をいくらか見せながら永遠の現在に生きている] ムイシュキン公爵とはこの一言に尽きるのではないかと思います。
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