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(更新:24/02/06)




二つの沈黙
(維摩居士の沈黙と
『カラ兄弟』のイエスの沈黙。
)
(
1〜12)

投稿者:
うなぎ犬、Seigo




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二つの沈黙

名前: うなぎ犬 
投稿日時:16/09/05()


大乗経典の維摩居士の沈黙と、カラマーゾフの兄弟のエピソードで現れるイエスの沈黙。

この二つはとてもよく似てると思います。

生と死や、有限と無限といった相反する観念が同時に成立するこの世界の不思議を表現しようとすると、どうしても沈黙という表現形式を採用するしかないのかなと考えたりします。

皆さんはどのように考えますか。



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RE:
二つの沈黙

名前:Seigo 
投稿日時:16/09/06()


うなぎ犬さん、
音楽ボードをはじめ、日頃の掲示板への投稿、ありがとうございます。
ori-H
さん、ン--カサブランさん、確かな現実さん、mirさん、カメさん、先月「読後感・短評コーナー」に『カラ兄弟』『罪と罰』を読んだ感想を投稿してくれたレニさんをはじめ、皆さんも、ボードへの投稿、どうも。
(
最近の台風の珍妙な攻勢には辟易しながらも、九州大分のこちらは変わりありません。
自分は、ここ最近(4月以降)、クラシック音楽(クラシックの美しい小品)ばかり探しては聴いてまして、音楽ボードの方へは、そのつど、その成果をちょくちょく投稿してきたのですが、肝心のドストエフスキーのボードの方への投稿がほとんどできていません。ためてきていて投稿してみたいドストエフスキーをめぐる事項は無いことはないのですが、、、。)


今回挙げてくれた二つの沈黙の例(『維摩経』の入不二法門品第九の中の維摩居士の一黙のことを挙げるとは、うなぎ犬さんの造詣も東西へと広くて感心します)とその比較は、仏教にも関心や知識がある私にとっても、大変興味深いです。
『カラ兄弟』のぶん
(
大審問官の章における聞き手のイエスの終始の沈黙(と最後の大審問官への接吻)のこと)
は、『カラ兄弟』の中で私が感銘を受けたものの一つです。

さて、
この二つの比較についてですが、
同じ沈黙(無言)の行為であっても、その内容(内実)の方は、かなり異なっていると思うのです。
うなぎ犬さんの方は、まず、その点は、どう思いますか?


(
大審問官。Y・トゥルルイギン画。)



() 
 
名前:うなぎ犬 
投稿日時:16/09/09() 


Seigo
さん、お元気そうでなによりです。
 
お尋ねの件ですが、僕は維摩居士の沈黙とイエスの沈黙、その内実は随分異なるものであると考えます。

まず維摩経の入不二法門品第九の冒頭、維摩居士は菩薩たちに「不二の法門に入るということは、どのようなことなのか」それを説くように促します。

菩薩たちが自説を語った後、文殊師利菩薩は「一切法に於いて言葉も、説明も、指示も、意識することもない。是れを不二の法門に入るということだ」と述べます。

文殊師利菩薩は維摩居士に「あなたの教説をお説き下さい」と請います。

これに対して維摩居士は沈黙します。

この沈黙によって、これこそが不二の法門に入ることだと文殊師利菩薩は維摩を讚歎します。

維摩の沈黙は、不二の法門とは何かとの維摩の問いから発しており、その沈黙には法門に対する峻厳な姿勢が窺えます。

これに対して、カラマーゾフの兄弟の作中、イワンによって創作された16世紀セヴィリアに突如現れたイエスの沈黙は随分趣が異なります。

異端審問が盛んな場所に現れたイエスは、どういうわけかすぐに民衆に見つかります。盲目を癒したり、死んだ娘を復活させたりしていると、大審問官に生け捕りにされ、牢獄に囚われます。

自由とは何か。

信仰とは何か。

狂気じみた老大審問官の社会主義的ユートピア理論の一方的な問いかけに非難の色を浮かべるでもなく、沈黙するイエス。

最後には彼は無言のまま老審問官に近づきその唇にキスをします。

ドストエフスキーは知識や理論によってイエスを描いているのではなく、全感覚を総動員し、人間の究極の理想の美しさを、イエスを描く事によって表現しているのではないでしょうか。

イエスの沈黙の意義については、知識や理論を積み重ねて理解できるものではなく、感覚や直感、想像力を働かせることでしか得られないのではないかと考えます。

Seigo
さんはどのようにお考えになりますか。



() 

名前:Seigo 
投稿日時:16/09/25()


うなぎ犬さん、
お尋ねのページ内「作品の読後感・短評」への投稿は、メールで歓迎しているので、いつでも、投稿してみてね。

最近聴き始め、音楽ボードにも連続して投稿してみたアメリカの,
スムースジャズの曲
(
ジャズピアノとサックスの響きや音色がたまらない。スムースジャズのプレイヤーを『カラ兄弟』の三兄弟にたとえれば、
Richard Elliot ― ドミートリイ
Brian Culbertson ― イヴァン
Kenny G ― アリョーシャ
といったところか。 ← これ、「イラスト・配役」コーナーに投稿できる。)
を聴きながら、投
稿「二つの沈黙」で出た意見について、以降、あれこれと考えているところです。

つまりは、
 ・大審問官の章で打ち出しているドストエフスキーの人間観
 ・うなぎ犬さんが言うイエス(キリスト教)の人間観や信仰観
ということなのですが、うまくまとまったら、のちに、書き込んでみます。
うなぎ犬さんも、さらに意見があるのならば、いつでも、引き続いて展開してみてね。



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イエスの沈黙の意味を理解するために @ゾシマ長老の兄マルケルの信仰観
名前:うなぎ犬 
投稿日時:16/10/08()


イエスの沈黙の意味を理解するために改めてカラマーゾフの兄弟を読み返してみました。

@ゾシマ長老の兄マルケルの信仰観について。

全ての人が、全ての人や全てのものに罪があるということ。

そしてそのことを自覚すれば天国はすぐにでもやってくるということ。(ソボールノスチ?)

これは大審問官に対するイエスの態度、つまりその沈黙と接吻の意味を理解するための重要な鍵ではないでしょうか。

イエスは大審問官に対しても罪を感じており、それ故に共苦していた。

大審問官に非難されている、その瞬間瞬間にあっても、イエスは天国にいるような安堵と喜びに満たされていた。

この二つのイエスの内面の心理は同じ時間軸で併存していたと考えられます。

苦しみつつ喜び、喜びつつ苦しんでいる、その特異な心理状態。

そこから来る沈黙にこそ、イエスの美しさの秘密が隠されているのではないでしょうか。

>「苦しみと悩みは、偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって、常に必然的なものである」ドストエフスキーの言葉

>「最も多く愛するものは、常に敗者であり、常に悩まなければならぬ」トーマス・マンの言葉

この創作詩を聞いたアリョーシャは、「これはむしろイエスを賛美している」と指摘しています。

創作したイワンにとって意識化、言語化されなかったイエスの美しさを、アリョーシャは感じ取っていた。この構図がとても重要だと思います。

この辺りにイワンの分裂する苦しみの本性が見え隠れしているのではないでしょうか。

考えがまとまれば加筆修正しますね。



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イエスの沈黙の意味を理解するために A沈黙の技法 
名前:うなぎ犬 
投稿日時:16/10/16()
 

沈黙に何を対峙させるかによって、その沈黙はただの沈黙ではなくなり、より多くのことを表現できる可能性を孕んでいます。

沈黙はそれを際立たせた問いそのものを、内包し、意味を与え、正しい位置に置くことによって、その問いにも新しい命を吹き込み、光輝かせるのです。


「石をパンに変えてみろ」

「高所から飛び降りてみろ」

「地上の楽園の主となれ」

要約すると、奇跡、神秘、権威です。

イエスはそれを退けます。

しかし、大審問官は

自由よりもパンの方が価値があるとし

自由な信仰より奇跡の方を重要視し

自由より権威への服従が必要であると結論づけました。

イエスへの憧憬や、厳しい修行を行ってきた大審問官はいつしか悪魔の誘惑に負けその信仰を引き裂かれてしまいます。

ではイエスの沈黙は具体的に何を語らずに語っているのでしょうか?

自由にももちろん価値がある。パンにももちろん価値がある。

自由な信仰はもちろん価値がある。奇跡にももちろん価値がある。

自由そのものにももちろん価値がある。権威への服従にももちろん価値がある。

やはり我々人間にとってパンは必要でしょう。

難病で苦しむ人が現代の医学では説明できない奇跡によって治ることだって必要です。

それに、災害時における緊急避難指示を誰もが無視したら被害は増大するでしょう。つまり権威への服従もある程度必要ではないでしょうか。

過度の自由は人間に害をなすことも事実です。

自由と対立させた概念と自由の否定すべてを相対化し、内包し、それを肯定していたのではないでしょうか。

イエスは誰のことも裁いておらず、全ての人の罪を背負い、苦しみ、そして全ての人を許しています。

大審問官やイワンが指摘するようにこの地上は不完全で発展途上で矛盾しています。

それは揺るぎない事実です。

しかし、沈黙のイエスの眼には、この地上が完成され既に到達し調和しているものに見えていたのではないでしょうか。

大審問官にとって、意識化、言語化できなかったこの世界の別の側面。そのコントラストがイエスの沈黙によって浮かび上がっているのではないでしょうか。

簡単に表現してしまうと大審問官=部分観、イエス=全体観という構造でしょう。

つまり言語=部分観、沈黙=全体観と言い換えることができるかもしれません。

ここで重要なことは部分観が悪くて全体観が善いなどとは言えないことです。

部分観は部分観としては正しいのであり、それにももちろん価値があります。

しかし、部分観は全体観に内包され、意味を与えられ、正しい位置に置かれることによって、その真価を発揮します。

一番の問題は部分観を全体観だと勘違いしたり、全体観を部分観だと取り違えたりしてしまうことです。

>「すべて何かのイチブってことに 僕らは気づかない 愛しい理由を見つけたのなら もう失わないで 愛しぬけるポイントがひとつありゃいいのに それだけでいいのに」『イチブトゼンブ』より 作詞 稲葉浩志

補足 私は時代背景や文化・政治状況が変われば、イエスの教えの内容も劇的に変化していたのではないかと推察します。



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イエスの沈黙の意味を理解するために B命の光

名前:うなぎ犬 
投稿日時:17/04/02()


>「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ。」

大審問官と対峙する沈黙のイエスの生命はあかあかと燃えている。

自身の正当性を主張する大審問官は言辞を弄せば弄すほど、生命の深奥に於いては、懐かしさとも安堵とも取れる不思議な癒しを感じていたのではないだろうか。

イエスを糾弾しながらも、否定に否定を重ねながらも拭えない何か。

結局、大審問官はイエスに手を下すことなく、野にかえしてしまう。

>「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ。」

この不完全で発展途上で矛盾した世界が、ありのまま、そのまま、完全で既に到達し調和した世界であるということ。

言語と沈黙。

論理と非論理。

否定と肯定。

全てが緩やかに統合しながら、光の世界を創っている。

イエスこそ全人類の、全生命の、命の光。

それをドストエフスキーはそっと教え示してくれているのではないだろうか。



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イエスの沈黙の意味を理解するために C接吻(キス)の意味

名前:うなぎ犬 
投稿日時:17/04/21() 


イエスは大審問官の長広舌の最後にそっと彼に近づき接吻をします。

Seigo
さんがHPのトップページに、「喧嘩からのキス」というダチョウ倶楽部さんのギャグを取り上げておられましたが、思わず上記の場面と重ね合わせてしまって、爆笑してしまいました。

ドストエフスキーという作家は深刻な作家だと捉えられがちですが、意外とユーモアのセンスも持ち合わせていたのではないでしょうか。

私の解釈では言語=論理ではなく非言語=非論理への転換を込めて行った行為だと考えています。

Seigo
さんはどのようにお考えになりますか?


追記 
(※あとの投稿「二つの沈黙 ()」の「P.S.」を投稿後の、うなぎ犬さんの追記)
今般の朝鮮半島情勢については、まずお互いが同じ人間なのだという原点に立ち返り、金正恩氏にもトランプ氏にも善の心が必ずあると信じ、その善を最大限に薫発させていかなくてはならないのだと思っています。民衆から選ばれた政治家にはその重い責任があります。私個人としては毎日平和を真剣に祈っています。宇宙からの高次の生命体については存じ上げませんが、きっと私たちにとって平和と安定のために働いていてくれることでしょう。



(
) 

RE:二つの沈黙、
〔追記〕憂慮と希望  

名前:Seigo 
投稿日時:17/04/22()

補記・更新:17/05/04()


うなぎ犬さん、
当トピックに対する、これまでのそのつどの一連の投稿、ありがとうございます。

自分の方はその後レスせずじまいになっていますが、このたびのうなぎ犬さんからの投稿も含めて、私の方からも、考えがまとまったら、あらためて投稿してみるので、少々、待って下さい。


P.S.(追記・更新 4/23 1200)
うなぎ犬さんが今回触れている、HPの上部に掲げたその言葉「
なぐりあいのけんかをしている人たちが、それと同時に愛しあえな、いというわけがどこにあろう!(ドストエフスキー「作家の日記」より)、及び、類似のものとしてダチョウ倶楽部のギャグ及びリンク先の記事(金正恩氏VSトランプ氏)のことですが、この4月中旬から生じている米朝の軍事衝突もあり得る北朝鮮情勢の緊迫のことが私の脳裏にもあり、そのことへの憂慮から今回それらを掲げてみたことは皆さんも気付いていると思う。
下手をすれば日本もその騒動に巻き込まれて厳しい事態になりかねない今回の情勢については、今後、関係する国や人たちが交渉と英知をもって平和的に解決され、おさまっていくことを、祈り、願うばかりだ。
(
なお、この2010年代に地球に出現した地球外の高度な文明を持ったある一大勢力の一行が、今の地球(と言っても対象は日本が中心のようです)に対して 高次元にまでわたって陰に陽に働きかけをして地球の平和と安定を守り、地球の運命までも変えようとしてくれていることを、自分は昨年の末から知りました。今回の米朝の事態に対してもすでに介入している彼らの活動にも期待と希望を持ちたいと思う。

さらに言及してみるならば、金正恩氏及びトランプ氏は大審問官、上記の「彼ら」はイエス、と言ってよいのかもしれない。そして、向かい合い黙って眺めていた「彼ら」のそのキスによって、 、、、。)

※、以上のことは今後機会があればページ内のコーナーにでも投稿して掲載してみるつもり。



(10) 

イエスの沈黙の意味を理解するために Dイワンの祈り
名前:うなぎ犬 
投稿日時:17/05/08()


さて、「祈り」とはいったいなんでしょう。

大審問官の章は、イワン己心の大審問官、イワン己心の沈黙のイエスと捉えると、あの創作詩自体、イワンの屈折した祈りを表しているといえるのではないでしょうか。

無宗教の人もときとして祈ります。

あらゆる宗教にも祈りがあります。

現実より上位の世界に対する敬虔な思いを抱いて。

そして人は現実に戻り、また機会があれば祈ります。

この現実と祈りの往復作用。

祈りの効用は部分観しか持てない我々の部分観を限りなく全体観に立脚した部分観へと変化させる。

祈りは単なる慰めではなく、そのたゆまぬ往復作用によって人間の可能性を無限大に開く効果がある。

アリョーシャに語るイワンの創作詩の言葉は彼に向けられたものであると同時に、より上位の世界に対するイワンの訴えではなかったか?

そんなふうに考えてみました。



(11) 

イエスの沈黙の意味を理解するために E不軽菩薩とイエス
名前:うなぎ犬 
投稿日時:17/12/04() 


涅槃経疏の章安大師の言葉に有名な「慈(じ)無くして詐(いつわ)り親(した)しむは即ち是れ彼が怨なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親(しん)なり」との言葉があります。

これは、沈黙のイエスの態度とその後の接吻を考えるうえで重要な示唆を与えているかのようです。

法華経の常不軽菩薩品で説かれる釈尊の前世の姿である不軽菩薩は全ての衆生に「あなたたちは菩薩の道を行じて仏になれるのだ」と説きました。

一方、イエスは衆生に隣人愛を説き神の国は近いと教えました。


内在と外在という相違はあれども不軽菩薩とイエスには共通点があると思います。

Seigo
さんはどのようにお考えになりますか?



(12) 

イエスの沈黙の意味を理解するために F桜梅桃李

名前:うなぎ犬 
投稿日時:18/01/13()


桜梅桃李はそれぞれが好き勝手に生きることではない

僕達は個体で

それ以上でも

それ以下でもない

しかし個体は他者との繋がりなしでは生きていけない

個は関係性の中ではじめて

個性を光輝かせることができる

完全で既に到達し調和した世界だからこそ

桜梅桃李の個性は最大限に発揮される







ドストエフスキーと仏教思想
(
1〜8)


投稿者:
Seigoミエハリ・バカーチン




(
)

[15]
ドストエフスキーと仏教思想
名前: Seigo 
投稿日時:08/01/31()


ドストエフスキーと仏教思想 ―― このテーマについては、以前から関心があったので、あらためて、掲げました。
(
なお、「ドストエフスキーとアジア」というテーマは、また、別途に論じるべきでしょう。)

内容としては、

・ドストエフスキーの、仏教(仏教思想)との関わり

・仏教思想(仏教の世界観・人間観・救済観等)の立場からの、ドストエフスキーの思想(キリスト教思想等)の批判、あるいは、両者の比較論

・ドストエフスキー文学の中に見受けられる仏教的な内容(思想、発想、事項など)

など、いろいろな観点が考えられるでしょうが、このタイトルに関して何か気付きがあれば、なんでも、述べてみて下さい。



()

[16]
いくつかの関連情報 ()
名前:Seigo 
投稿日時:08/01/31()


ドストエフスキーと仏教ということで、
まず、以下に、関連するいくつかの情報を挙げておきます。(ページ内にすでに掲載しているものです。)

・ドストエフスキーの蔵書として、1874年にペテルブルグで刊行されているA‐クーゼフ著『仏教の精神的理想』があったことが、グロスマン編『ドストエフスキー蔵書目録』で報告されている。

・ドストエフスキーの知人や影響を受けた思想家の中には東洋思想に詳しい人物が何人かいる。彼らから仏教思想をある程度吸収していた可能性はある。( ソロヴィヨフ、フョードロフ、など)

・ドストエフスキー没後に、トルストイの、

「ドストエフスキーは孔子か、さもなくば仏教徒の教えを知ったらよかったのだ。そうすればかれは気持ちが安らぎ落ち着いたことだろう。これは大事な点で、みんなこのことを知るべきだ。」

という発言あり。



()

[17]
いくつかの関連情報 ()
名前:Seigo 
投稿日時:08/01/31()


このテーマに関して仏教学者等が論じた論文は探せば結構あるかもしれませんが、これまでの知られた内外のドストエフスキー関係の本の中では、

田中幸治氏の、

『ドストエーフスキイ山脈』(近代文芸社1983年初版)
『ドストエーフスキイ山脈 続』(近代文芸社1990年初版)
の中の論
(
「ドストエーフスキイと大乗仏教」「ドストエーフスキイと仏教の日本的展開との谷間から」、など)

が知られるくらいです。
(
この二書はすでに品切れになっており、自分は、いまだ未入手で、未見です。)

論文等の情報がありましたら、いつでも、教えて下さい。



()

[18]
「ゾシマ長老・大審問官」と親鸞
名前:Seigo 
投稿日時:08/02/01()


※、以下は、以前掲示板に書き込んだぶん(このたび少し補筆)です。
 
ゾシマ長老
「限りない神さまの愛を使いはたしてしまおうとするような人間にそんな大きな罪が犯せるものではない。それとも神さまの愛でさえ追っつかぬような罪があるじゃろうか!」(米川正夫訳)

大審問官
「よいか、わしはおまえなぞ恐れはせぬぞ。よいか、わしもやはり荒野へ行って、いなごと草の根で命をつないだことがあるぞ。おまえは自由をもって人間を祝福したが、わしもその自由を祝福したことがあるぞ。わしも「数を満たし」たい渇望のために、おまえの選ばれたる人々の仲間へ、偉大なる強者の仲間へはいろうと思ったことがあるぞ。しかし、あとで目がさめたら、気ちがいに奉仕するのがいやになったのだ。それでまた引っ返して、おまえの仕事を訂正した人々の群れに投じたのだ。つまり、わしは傲慢(ごうまん)なる人々のかたわらを去って、へりくだれる人々の幸福のために、へりくだれる人々のところへ帰って来たのだ。」(米川正夫訳)


親鸞の教え(浄土宗・浄土真宗の教え)というのはキリスト教的な教えが多分に含まれていると言えるでしょうが、親鸞の思想とドストエフスキーの中のパウロ的な思想(パウロは新約聖書のパウロのこと)には共通面(親鸞の言う「悪人正機」の人間観など)があるようです。
(
上に掲げた『カラ兄弟』のゾシマ長老の考えなどはまるで親鸞の教えのようです。また、『罪と罰』でマルメラードフが語る思いなども「悪人正機」説そのものであることは『罪と罰』を読んだ人は皆感じているでしょう。)

民衆個々の「自力」を歓迎せずおさえようとする『カラ兄弟』の大審問官の言葉の中には、弱者たる民衆を「他力」によって救済せんとする親鸞の言葉(考え)を彷彿(ほうふつ)させるような箇所も多々あり、自分は、大審問官の姿が親鸞の姿に見えるような思いをすることもあります。(上に掲げたイエスに向けての大審問官の言葉などは、法華経を最終的に説いた仏陀に向けての親鸞の語る言葉のようにも思えます。)




()

[19]
アリョーシャの人物像と菩薩
名前:Seigo 
投稿日時:08/02/01()


仏教の経典では、各時代の各所で活躍する菩薩たちのことがよく出てきますが、『カラ兄弟』のアリョーシャの姿は、私には、仏教で言うその菩薩たちの姿に重なります。

アリョーシャの姿と隣人愛の実践は、キリスト教で言う使徒・聖徒たちのイメージよりも、柔和なやさしいお顔を持ち自己の解脱(げだつ)よりも日々慈悲と利他行(りたぎょう)に邁進(まいしん)する大乗仏教の菩薩たちのイメージに合うような気がしてなりません。

作中のガリラヤのカナでの、夜の天空の無数の神の世界から投げられた糸を感得して人々の幸せのためにアリョーシャが立ち上がっていく彼の姿と熱い思いと確信は、まさに、仏の前で一切衆生を救済し成仏させていく大誓願をした菩薩たちの姿や思いそのものでしょう。

ドストエフスキーは、大乗仏教の菩薩のような人物を思い描き最終的にアリョーシャにおいて見事に造形し得たと言えます。ドストエフスキー自身も菩薩のような人でした。
(
ただ、ドストエフスキーはさらにその先の、仏教で言う「仏」という存在や境地(仏教では境地の高い菩薩も衆生救済の途上においていまだ無明(むみょう)や悩みを抱(かか)えるとしています)についての知識・認識を得ていなかったと思われる点が惜しまれるのではないでしょうか。)



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[23]
RE:ドストエフスキーと仏教思想
名前:ミエハリ・バカーチン 
投稿日時:08/02/01()


「ドストエフスキーと仏教思想」という、一見突飛なお題は、Seigoさんのライフワークみたいですね。

ドストエフスキーと仏教思想との間に直接的な影響関係は勿論ないでしょうけど、そういう影響云々を抜きにした次元で、ドストエフスキーと仏教思想に相通じ 合うものがあるのを考えるのは、それなりに有意義なことだと思います。仏教思想というよりは、「ドストエフスキーとブッダ」という風に問題設定した方がいいのかも知れません。

ドストエフスキーと仏教を絡めて論じたものというと、Seigoさんは既にご存知だと思いますが、坂口安吾との対談の中で小林秀雄は、アリョーシャは鉄斎 の観音みたようなもんだ、と語っていますね。アリョーシャに御仏の慈悲の顕現を見出した先駆者としても、小林秀雄は押えておいていい人物なのかも知れませ ん。アリョーシャに観音様を見るというのは、サンボリストならではの非論理的論理だと思います。



()

[29]
ゾシマ長老の教説 VS 仏教の教え
名前:Seigo 
投稿日時:08/02/02()


『カラ兄弟』の中のゾシマ長老の教説で自分が深く感銘を受けたのは、

・すべての生き物に対して、神は付いており(見守っており、宿っており)、すべての生き物は自ずから神の道を行なっているという教え(=汎神論? 汎在神論?)

・人間はお互いに罪をおかしあっているが、罪を自覚し合ったお互いによる、また、神によるゆるし合いによって、すばらしい世界が出現するという罪の共同体(=ソボールノスチ)の教え

の二つです。

この二つの教えは、欧米のキリスト教の教えというよりも、ロシアの古来の土着思想やスラブ派の思想も加わった、ロシア正教内の、長老制の長老の独自の教えと言えるものなのでしょうが、もちろん内容のレベルは異なるとは言え、その二つの教えは仏教の教えに重なるものがあると自分は感じてきました。

すなわち、

前者の教えは、

仏教の仏性論・成仏論
(
仏陀は、その悟りから、他の生き物や事物も含めて、人間(凡夫)の内にはもともと仏性がある(仏や菩薩は人の外にあるものではない)と最終的に法華経及び涅槃教で説きました。
ただし、「神の見守りや導き、神の道、神性」と「内在する仏性」は異なるという点で、両者は違いがあるでしょう。)

後者の教えは、

仏教の宿業論・自他不二論
(
あらゆる現象も含め、個々人の今のありようは、過去世も含めて、個々人が過去に行なってきた行い(=業(ごう))の積み重ねに基づくと仏陀は説きました。ただし、仏教は、飛躍ある単なる「ゆるし合い」でなくて、自己の厳然たる宿業を各人がお互いに自ら変えていくことによって解決していくという点で、両者は異なるでしょう。)

に重なります。

そういう点では、ゾシマ長老の教えは、仏教思想的な面がある。



()

[30]
[No.23] 天使と菩薩
名前:Seigo 
投稿日時:08/02/02()


ミエハリさんの指摘の通り、

・仏教思想(その世界観・人間観・救済観)の立場からの、ドストエフスキーの思想の批判

・ドストエフスキーの文学を通して「自由」の問題を深めていくこと

なども含めて、自分のライフワークになっていきそうです。

急がず、ぼちぼち進めていこうと思うので、今後、また、折りごとに、意見を聞かせて下さいね。

タイトルについては、広く取って、このまま、「ドストエフスキーと仏教思想」で行きます。 

*    *    *



>坂口安吾との対談の中で小林秀雄は、アリョーシャは鉄斎の観音
>みたようなもんだ、と語っていますね。
のその対談の箇所は、ページ内でも引用している こちらのぶんでしょうね。
(
ちなみに、小林秀雄が挙げている鉄斎の観音とは、こちらの画()のことかな。)

ただ、
このたびは、アリョーシャを、エンジェル(天使)や慈悲の観音菩薩というよりは、利他行に邁進する菩薩と自分は捉えてみました。