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事項別の単独の投稿記事
『カラマーゾフの兄弟』のこと
・『カラマーゾフの兄弟』
の良さのこと
『白痴』のこと
・ナスターシャ‐フィリポヴナ
の死について(1)
・ナスターシャ‐フィリポヴナ
の死について(2)
作品の典拠のこと
・『リア王』の三姉妹と
『カラ兄弟』の三兄弟
・『ゴリオ爺さん』と『罪と罰』
の類似のこと
ドストエフスキーが至ったこと
・― ついに生命そのもの
への信仰に至る。―
・新城和一氏の論
ドストエフスキーにおけ
る「自由」の問題のこと
・ドストエフスキーにおけ
る「自由」の問題 (11)
― 勝田氏の大審問官評
ドストエフスキーの性格・人柄、
物事の捉え方、生きていく態度、
精神状況のこと
・ドストエフスキーの性格のこと
・ゲーテ、シェークスピア、
バルザック等の影響のこと
・ドストエフスキーの美観
・円熟していった謙虚
で前向きな人
・晩年にかけてのドストエフス
キーの心の安定(安らぎ)のこと
登場人物の教えのこと
・ゾシマ長老の教え
・マカール老人の教えのこと
・ステパン氏の思想のこと
原文にあたってみての気付き
・アリョーシャの演説
の中の箇所
・『虐げられた人びと』
の原題のこと
・『カラマーゾフの兄弟』
の原題のこと
各論者のドストエフスキー論
・小林秀雄のドストエフ
スキー論のこと
比較論
・松尾芭蕉 VS ドストエフスキー
ドストエフスキーの影響
が見られる後世の作品
・ドラマ「JIN-仁-」とドス
トエフスキー『白痴』
・映画『男はつらいよ』
と『白痴』
・辛島美登里「サイレント・イ
ブ」と『地下室の手記』
シリーズものの投稿記事
※ドストエフスキーのコー
ナーに一括して再掲載し
ているぶん
(更新:26/08/07)
・ドストエフスキーの小説
の題名をパロる! (1)〜(23)
(更新:26/08/07)
・ドストエフスキーから
得た考えや教え (1)〜(12)
・ドストエフスキーの小説の特徴
(更新:26/08/07)
・ドストエフスキーの重要
な事跡 (1)〜(10)
『カラマーゾフの兄弟』のこと
[662]
名前:Seigo
投稿:24/07/02
更新:26/08/04
『カラマーゾフの兄弟』の良さのこと
ドストエフスキーの最後の長編小説『カラマーゾフの兄弟』の良いところは、登場人物の魅力だけでなく、カラマーゾフ家の短期日の日常生活で起こる事件をめぐって、そのシーンや会話に、人生や人間についてドストエフスキーが最終的に気付いた洞察や真実を巧みに盛り込んで、読者にそれを感得させていく点にあると思う。
そういう点で、『カラマーゾフの兄弟』は読み甲斐のある小説と言えるだろう。
『白痴』のこと
[749]
名前:Seigo
投稿:25/04/02
更新:26/07/24
ナスターシャ‐フィリポヴナ
の死について(1)
(ネタバレ注意) 小説『白痴』において、最後にナスターシャ‐フィリポヴナがラゴージンの手に掛かって死んだ(部屋の中のベッドには彼女の死体が横たわっている)のをムイシュキン公爵は知って、気が触れてしまったラゴージンと早朝までその部屋で寄り添って過ごす間、これこそが彼女の救い(魂の安らぎ・彼女を黙らせること・静謐の獲得)となったのではないか(従来のままでは彼女は、二人の間の板挟みになって、苦しむばかりであり、安らぐことはない。従来の状況ではムイシュキン公爵も彼女を救えない。)と思った(ムイシュキン公爵は以前にもそのようなことをよく考えた)と言えるのではないかと自分は近年考えているところです。
なお、ナスターシャ‐フィリポヴナの死に、そのあと、キリスト教で言う「復活」を期待(予兆)するような『白痴』論があり、そのあたりのことは、難し過ぎて、私の理解を越えていますが、生贄(いけにえ)というさらに難解なキーワードも含めて、作者ドストエフスキーにそのあたりの意味付けが実際にあったのなら、いつか、理解していけたらと思っています。
(※、このたび、Yahoo!知恵袋で、以上のことを問いかけてみました。速答のAIさんからは、ある程度、回答は得られたようです。 →
こちら )

[黒澤明監督の映画『白痴』より。]
[750]
名前:Seigo
投稿:25/04/05
更新:26/07/24
ナスターシャ‐フィリポヴナ
の死について(2)
前回の投稿の追記です。
『白痴』の末部で、ナスターシャ‐フィリポヴナの屍体が横たわる部屋でムイシュキン公爵がラゴージンと翌朝まで寄り添うようにして過ごす間、ムイシュキン公爵が何を思い、考えたか、について、あらためて考えてみたい。
その間、ムイシュキン公爵は、男女の三角四角関係に陥った人間たちの性(さが)による悲劇のことを思い、自分の罪性を思い、その罪に戦(おのの)き続けたと思う。この街に戻ってきて、憐憫・救済の情(じょう)があったとは言え、二人の仲に割り込んでしまい(さらに、同時にアグラーヤのことも愛してしまい)、しまいにはナスターシャ‐フィリポヴナをこういう末路に至らせた原因が二人を嫉妬や不満足等で苦しめた自分にあることを自覚して、ラゴージンとナスターシャ‐フィリポヴナにはほんとに済まなかったと思ったと言える。翌朝までラゴージンに寄り添い、いたわる様子は、そのことを示している。
彼女の死は彼にとって悲しみであるが、同時に、前回の投稿で触れた通り、安寧を得られずにいた彼女の魂をやっと安(やす)んじさせたという思いもあり、自分は彼女の死を実は願っていたという認知は、ラゴージンとの共犯意識も生じさせ、それらの思いは、いっそう複雑な恐れ戦(おのの)きの感情として、彼に迫っていただろう。
と言っても自分の理解はまだまだ不十分であり、このラストシーンを自賛していた作者のこの場面に深く込めた内容を、さらに、もっと理解できていけたたらと思う。
作品の典拠のこと
[39]
名前:Seigo
投稿:22/01/12
『リア王』の三姉妹と
『カラ兄弟』の三兄弟
「検討したい事項・テーマ」で挙げている以下の事項などは、自分で挙げておきながら、興味が尽きないテーマです。
・ドストエフスキーとシェークスピア
※、
『カラ兄弟』における兄弟と親の設定はどこから来たのか、ということが昔から気になっています。
ドストエフスキー自身の親兄弟から、または、親・兄弟に各々つながりのある理念を込めることから、等々、いろいろと指摘できますが、その一つとして、ドストエフスキーが知っていた過去の古典作品からという見方があり、自分はシェークスピアの悲劇『リア王』に注目している。
ドストエフスキーはシェークスピアの作品をよく読んでいた。ドストエフスキーは作中でシェークスピアの作品の登場人物のことをよく引用する。『罪と罰』は、主人公の人物像・状況・人間関係においてシェークスピアの悲劇『ハムレット』をいくらか踏まえていると言えますが、ほかに、『カラ兄弟』の親子(フョードルと三人の息子)の設定において、シェークスピアの悲劇『リア王』の親子の設定(リア王と三人の娘)をいくらか踏まえたのではないかと自分は最近思っている。特に、継承をめぐって父を出し抜こうとする二人の姉のことと父の財産の相続を狙う兄のドミートリイ・イヴァンのこと、親思いの末娘のコーデリアのことと末っ子のアリョーシャのことは、気になります。
そこで、昨日から『リア王』を読みなおし始めました。昨日欧米の小説が並んでいる自宅の本棚から旺文社文庫の『リア王』を引っ張り出したところ、学生時代に読んだのか、全体にわたって傍線引きの書き込みあり。ついでに映画や舞台の「リア王」も観てみます。今後、何か詳しい気付きでも出てくれば、投稿してみたい。
シェークスピアについては、最近、コーナー「名言の泉」関連でいくつかのシェークスピアの言葉に新たに接する機会があり、
・「神はわれわれを人間にするために、何らかの欠点を与えた。」
など、人間というものをめぐってのシェークスピアの洞察は、ドストエフスキーのそれに勝るとも劣らず鋭いとあらためて思う。
ちなみに、私生活のことがよくわかっていないというシェークスピアの晩年のことを描いた映画『シェイクスピアの庭』(2018年)を、後日、観ることにしている。
[300]
名前:Seigo
投稿:23/03/15
『ゴリオ爺さん』と『罪と罰』
の類似のこと
HP内の人文方面のその他のコーナー「外国の作家(100人選)と作品」の追記更新のために、先月からバルザックの各小説について、いろいろとチェックしていて、バルザックの『ゴリオ爺さん』とドストエフスキーの『罪と罰』は、登場人物やその配置など、いろいろと対応していて似ている部分があることに気付きました。
自分は『ゴリオ爺さん』については、登場人物など、その内容はいくらか知っていたものの、まだ読んでいないので、今回この小説のあらすじや登場人物を確認していく中で気付いたのでした。
ドストエフスキーは、学生時代からバルザックの小説は熱心に読んでいますし、『罪と罰』と『ゴリオ爺さん』の類似については、両方の小説を読めば気付くことなので、ドストエフスキーの研究者の間でこの指摘はすでになされているのではないかと思います。その本格的な論文等はまだ確認出来ていませんが、ドストエフスキーを愛好するお方の簡単な指摘ながら、こちらなどが、その後確認出来ました。
『罪と罰』の創作ノートに『ゴリオ爺さん』の主人公ラスティニャックの名が見られることなどは貴重な情報です。
なお、
『罪と罰』で作者はどういう事情でスビドリガイロフを登場させたのかということが以前から気になっていたのですが、今回の気付きにより、作者は『ゴリオ爺さん』の登場人物(主人公ラスティニャックに交渉してくる謎めいた悪党ヴォートラン)との対応を考えて、同様のキャラを持つ登場人物としてスビドリガイロフを登場させたのではないかという見方も出てきたのでした。
ドストエフスキーが至ったこと
[13]
名前:Seigo
投稿:21/12/17
― ついに生命そのもの
への信仰に至る。―
ドストエフスキーについて述べている文章で、以前投稿して触れたことがありますが、最近あらためて注目した文章があります。
光文社のHPの古典新訳文庫のコーナーに載せている、
ロシア帝政末期の作家。60年の生涯のうちに、以下のような巨大な作品群を残した。『貧しき人々』『死の家の記録』『虐げられた人々』『地下室の手記』『罪と罰』『賭博者』『白痴』『悪霊』『永遠の夫』『未成年』そして『カラマーゾフの兄弟』。キリストを理想としながら、神か革命かの根元的な問いに引き裂かれ、ついに生命そのものへの信仰に至る。日本を含む世界の文学に、空前絶後の影響を与えた。
というで著者ドストエフスキーのことを短く記した文章の中の、
ついに生命そのものへの信仰に至る。
という箇所です。この文章を初めて目にした時は、「生命そのものへの信仰」という言い方に思わず膝を打ち、大いに感心しました。
その内容から言って、上の解説文は亀山郁夫氏が書いたものではないかと自分は思っているのですが、この文は、『罪と罰』『悪霊』と、「神か革命かの根元的な問いに引き裂かれ」、一作ごとにテーマを深めていったドストエフスキーの小説の中の、最後の『カラマーゾフの兄弟』で、登場人物(ドミートリイ)が作中の場面((第11編第4)において至った境地(どんな苦難にさいなまれていようとも「太陽」がある限り自分は苦難を恐れない、たとえ見えていなくても「太陽」があることを知ることこそ全生命なんだ」とドミートリイがアリョーシャに向かって熱く語ったこと)を述べているように思う。
作者ドストエフスキーは、理想としたキリスト以上に、悪の面も含め、苦難があっても揺るぎない信仰心を持つ人間の生命そのものの強さと尊厳に対する称賛(信仰)に至ったと書き手は言っているでしょう。
[671]
名前:Seigo
投稿:24/08/15
更新:26/08/05
新城和一氏の論
ドストイエフスキイの独自性は、透徹な直感を以(もっ)て霊肉の秘密を掴(つか)み出して、人生を精細に観察し解剖したのみでなく、彼には民族及び人類の運命に対する神経質な焦慮があり、彼が霊肉の辛辣(しんらつ)な争闘の中に、常により高きものに憧(あこが)れ、厭(あ)くなき渇望を以(もっ)て苦しい葛藤(かっとう)の中に神性を探し求め、外部及び内部のあらゆる障碍(しょうがい)と悪戦苦闘をしながら、遂(つい)に宇宙の魂に味到して、海の如(ごと)き広き愛の領域に肉迫した点にあるのである。 ―途中、略― ドストイエフスキイが人類愛に到達するまでには、永い苦しい争闘の過程を踏まなければならなかった。彼もまた我々と同じく、肉と本能とに弄(もてあそ)ばれて人生の迷路を永い間、さ迷ったのである。
[新城和一『ドストイエフスキイ―人・文学・思想』(愛宕書房1943年初版)の「序言」より。]
上の新城和一氏のドストエフスキー論においては、
・堕落したり、善悪・霊肉に引き裂かれたりしている登場人物も、その苦しみと葛藤の中で、罪意識と、より高きもの、善なるものへの思いを持(じ)していることをドストエフスキーは描いていること(『罪と罰』のマルメラードフ、『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイなど)
・その苦しみと葛藤の中で、登場人物もドストエフスキー自身も、広い、深い愛の境地・精神に至っていること(『未成年』のマカール老人、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャ・ゾシマ長老など)
というドストエフスキーの文学の良い点を指摘していて、心打たれるものがあります。
ドストエフスキーにおけ
る「自由」の問題のこと
[38]
名前:Seigo
投稿:22/01/06
ドストエフスキーにおけ
る「自由」の問題 (11) ― 勝
田氏の大審問官評
「自由」についてのドストエフスキーの切実な問題提起は、『カラ兄弟』のイヴァンが語る大審問官の章において、一つの頂点に達する。

16世紀の中世のスペインに現れるも捕らえられ幽閉されて尋問を受けるイエス(※この絵のイエスの風情はよいですね)と獄へと導く大審問官
重んじるべきものとしてイエスが民衆に説いた自由について大審問官はイエスに熱く語り、イエスを糺弾する
「人間と人間社会にとって、自由ほど堪(た)えがたいものは、いまだかつてなかった。」
「確固(かっこ)たる古代のおきてに引き換えて、人間はこれからさき、おのれの自由な心をもって、何が善であり何が悪であるか、自分自身できめなければならなくなった。しかも、その指導者といっては、おまえの姿が彼らの前にあるきりなのだ。」
「そうとも、われわれがいなかったら、彼ら(=民衆)は永久に食を得ることができないのだ!
彼らが自由である間は、いかなる科学でも彼らにパンを与えることはできないのだ!しかし、とどのつまり、彼らは自分の自由をわれわれの足もとにささげて、「わたくしどもを奴隷にしてくだすってもよろしいですから、どうぞ食べ物をくださいませ」と言うに違いない。つまり、自由とパンとはいかなる人間にとっても両立しがたいものであることを、彼ら自身が悟るのだ。じっさいどんなことがあっても、どんなことがあっても、彼らは自分たちの間でうまく分配することができないにきまっているからな!また決して自由になることができないことも、彼らは同様に悟るであろう。なぜと言うに、彼らはいくじなしで、不身持ちで、一文の値うちもない暴徒だからな。」
(『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの語りにおいて、中世のスペインに出現するも幽閉されたイエスに向かって放つ大審問官の言葉より。)
勝田氏は言う
「大審問官は、キリストと同様に、荒野の苦行に堪(た)えた人である。彼は、「あれか‐これか」の選択の自由が賦課(ふか)する精神の苦しみを味わい尽くし、人間の運命にとって自由の意味する悲劇性をみずから深く体験し、そしてかぎりない混乱と無秩序と不安と寂寥(せきりょう)とを生み出すべき自由の重荷を知りぬいた人の姿で登場する。だからこそ、老審問官の口調は重々しく真剣で、その言葉はわれわれ読者の心をしめつけないではおかないのである。」
〔 勝田吉太郎『ドストエフスキー』(潮出版社1968年初版)より。〕
この勝田氏の大審問官評の文章は、昔読んで、大いに感心し感銘を受けた文章です。
イヴァンが大審問官の話を語ったあとにアリョーシャが「いったい、自由ってものをそういうふうに解すべきでしょうか」と言っていますし、また、イエスの説いたという自由は宗教的意味合いを含む自由でしょうけれども、大審問官の語る自由の問題は、近現代社会の個人と社会における自由をめぐる問題(自由・権力・パンの問題)であるとみなしてもよいのであり、勝田氏が言うように、大審問官(イヴァン、ドストエフスキー)の内にあった切実な問題として捉えていきたいと思う。
※過去の投稿記事
・ドストエフスキーにおける
「自由」の問題(1〜10)
・「自由」について(1〜19)
ドストエフスキーの性格・人柄、
物事の捉え方、生きていく態度、
精神状況のこと
[676]
名前:Seigo
投稿:24/09/08
更新:26/07/30
ドストエフスキーの性格のこと
ドストエフスキーは実際、どういった性格・人柄の人物だったのかということが近年、気になっています。
その性格・人柄はいろいろと指摘できるだろうけれど(こちらなど)、自分が注目しているのは、氏(し)が几帳面だったという点です。身辺はいつも整理整頓されていて、服装もきちんとしていて清潔好きだった。仕事は責任を持って細かく几帳面にやり抜いた。
氏(し)のこれらの性格は、小説の創作の面でも支えや力になっただろうし、自由という問題を抱えていながら氏(し)を生活の上で迷いや混乱や自堕落から少なからず救ったと思う。
[672]
名前:Seigo
投稿:24/08/17
更新:26/07/30
ゲーテ、シェークスピア、
バルザック等の影響のこと
ドストエフスキーは学生時代から読書家であり、聖書は別格として、ゲーテ、シェークスピア、バルザックの文学や思想や生き様に親しんだことは、小説の題材を与えただけではなく、ドストエフスキーが、ペシミストや厭世家でなくて、プラス思考の人、情熱家、人間洞察の人になっていくのに大いに貢献したのではないかと思う。
また、スウェーデンボルグの霊界通信などの著作に接したことは、ドストエフスキーの人間の生(せい)の永遠性の考えに決定的な影響を与えたと言えるだろう。
[728]
名前:Seigo
投稿:25/02/05
更新:26/08/05
ドストエフスキーの美観
ドストエフスキーは、この世の美というものに関心を持ち続けた。ドストエフスキーの人間観察において、美は重要な位置を占める。
『白痴』『悪霊』『カラ兄弟』をはじめ、小説の中でも、登場人物に美について語らせている。
美をめぐってのドストエフスキーの見方や考えを以下に挙げてみる。
・美は謎であり、解きがたいものである。定義できないから、おそろしいものだ。[『カラ兄弟』のドミートリイの言葉]
・単純なものは、もうそれだけで美しい。[『未成年』より。]
・幸せと喜びは人を美しくする。[『白夜』より。]
・自然は、青空・愛らしい小鳥・若草など、限りない美の世界だ。[『カラ兄弟』より。]
・光が射す青葉(眼前の、目を閉じて想像しての)がこの世のものとは思えないほど美しかった。[『悪霊』のキリーロフの言葉]
・女性の肉体美や美しい衣裳(衣擦(きぬず)れなど)は魅惑的で、たまらない。[『カラ兄弟』のドミートリイの言葉、『罪と罰』のスヴィドリガイロフの言葉]
・美女の美はこの世界をひっくり返すこともできる。[『白痴』のムイシュキン公爵の言葉]
・私たちは、美無しでは生存できない。美を求める心があるから、科学なども生まれた。[『悪霊』のステパン氏の言葉]
・美は私たちを救う。[『白痴』のムイシュキン公爵の言葉]
最後に挙げたムイシュキン公爵の言葉は、いいことを言っていると思う。
[699]
名前:Seigo
投稿:24/11/30
更新:26/08/03
円熟していった謙虚で前向きな人
ドストエフスキーは矛盾の中にじっと坐(すわ)って円熟していった人であり、トルストイは合理的と信ずる道を果てまで歩かねば気が済まなかった人だ。
[小林秀雄(文芸評論家)]
本当に重要な人間で、多くの苦難を受けずに生きた人はかつてなかった。
[カール・ヒルティ(スイスの法学者・思想家)]
わたしにはいつも、最大の幸福とは、少なくともなぜ不幸なのかを知るということだと思われた。
(ドストエフスキー「作家の日記」より。)
しかし、なんといっても、この分裂は大きな苦しみです。尊敬してやまぬ愛すべきカチェリーナ‐フョードロヴナ、貴女はキリストとその聖約をお信じになりますか?
もし信じておいでになれば(それとも、信じようと熱望しておられれば)、心からキリストに帰依しなさい。そうすれば、この分裂の苦しみもずっと柔(やわ)らいで、精神的に救いが得られます。しかも、これが肝要なことなのです。
[ドストエフスキーの書簡(カチェリーナ‐フョードロヴナへの書簡)より。]
不幸なのは心のよこしまな人間ばかりです。私には、幸福とはどうも――人生に対する明るい見方と曇(くも)りのない心の中にあるものであって、外面的なものにあるのではないように思われます。
[ストエフスキーの書簡より。)
上の言葉に窺(うかが)われる通り、ドストエフスキーは、いろいろと欠点や短所やよくない点はありながらも、いくたの苦難や試煉や苦痛や悲しみを受け、信仰を得ていくなかで、謙虚になり、賢明になり、物の見方や人格や心の平安を磨き深めていった人だったと思う。
さらにもっと、ドストエフスキーのことを知りたいし、ドストエフスキーの色々な教えに接していきたい。
[669]
名前:Seigo
投稿:24/08/05
更新:26/07/30
晩年にかけてのドストエフス
キーの心の安定(安らぎ)のこと
書簡での発言や『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の教えにも窺(うかが)われるように、後半生、晩年にかけて、キリスト・神への信仰によって、氏の心や精神は落ち着きと安らぎを得ていたのではないかと、近年、思えてならない。
我が子の不幸やてんかんなどの病苦に苦しんだり、取り組んだ各テーマや懐疑が未解決のままだったりということはあっただろうが、そういった悲痛や問題の一切を、そのまま引き受けて認めていくといった境地を、神やキリストへの信仰や、愛や謙抑の精神で、ドストエフスキーは得ていた。死後の人間の霊魂の存続という考えや、アンナ夫人の存在と支えも、それに寄与したに違いない。『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』は、そういった中で、安定して制作されていった。
いちいち選択して生きていくことの難しさということに対して、『白痴』のムイシュキン公爵の「それでもやはり、何かそうとばかりも信じられない。時には、誰よりも賢い生活ができそうな気もします。」という述懐も、このあたりの信仰のことに関係してくるのだろうと思う。
登場人物の教え・思想のこと
[682]
名前:Seigo
投稿:24/10/18
更新:26/08/02
ゾシマ長老の教え
― 愛を伴う謙抑のこと
『カラ兄弟』においては、アリョーシャが編んだゾシマ長老の教説の箇所にあらためて注目したい。
ゾシマ長老の説く教えについては、罪の自覚の教えやゆるしの教えや克己の教えと並んで、愛の実践の教えが中心になると思うが、ゾシマ長老の愛について独自に述べた次の言葉は私にはいまだ気になっている。
愛をともなう謙抑は恐ろしい力である。あらゆる力の中でも最も強いもので、他にその比がないくらいである。
(語注: ・謙抑=謙虚で控え目であること。)
(『カラマーゾフの兄弟』の第6編第3のゾシマ長老の言葉。)
ゾシマ長老が言う「あらゆる力の中でも最も強いもの」としての「愛をともなう謙抑」は、私には、傲慢な愛ということなどと比較することでなんとなくわかるような気がするが、完全にはわからないところもある。
マハトマ・ガンジー氏も、
愛はこの世でもっとも効果的な力だ。にもかかわらずもっとも謙虚である。
と似たようなことを述べているが、成し遂げていく力となるというよりも、控え目で目立たないながら相手へのその込めた愛の真心が相手を感動させていくということなのだろうか。
なお、
『新約聖書』の「コリントの信徒への手紙」に、
愛は自慢せず、高ぶらない。
(第13章より。)
とあり、ドストエフスキー独自の考えというよりも、キリスト教の愛の考えからの影響があるようにも思う。
ともかくも、力としての大事な愛の形を述べている言葉だと思うので、今後、この言葉に対する理解をもっと深めていけたらと思う。
[748]
名前:Seigo
投稿:25/03/31
更新:26/08/02
マカール老人の教えのこと
『未成年』に登場するマカール老人の人のあり方・行為・生き方についての教えとして、以下の点に注目したい。『カラ兄弟』のゾシマ長老の教えと重なる面が多いが、独自のものもあり。
・陽気であること。
・笑うことが一番であること。
・人は、物質的な豊かさよりも、人や物に対する限りない愛によって幸福になること。
・人間は誰もが等しく尊厳を持っており、お互いを愛し合うべきであること。
・謙抑の愛は大きな力(恐ろしい力)を持つこと。
・神のない生活は苦しみでしかないこと。
・祈りという行為はよいものであること。
・心身に端麗さ(品位)を保つこと。
[775]
名前:Seigo
投稿:25/06/18
更新:26/08/02
ステパン氏の思想のこと
『悪霊』において思想を打ち出している登場人物とその思想として、作中の末部で放浪の末に回心を遂げるステパン氏のそれに改めて注目したい。
ステパン氏は、愛の尊さのこと、美の追求こそあらゆることの原動力であることを力説している。神への愛は神のその人間への愛やその人間の不死を約束するものであった。
また、ステパンは、無神論的な思想や社会活動に走る青年たちを、悪魔が身に入った輩(やから)として、批判する。そして、彼らは、いつか、挫折の後に癒(いや)されなければならない。
それにしても、ピョートルやスタヴローギンがステパン氏の子息であり、家庭教師だった時の教え子だったとは実に皮肉と言うほかない。
原文にあたってみての気付き
[38]
名前:Seigo
投稿:26/03/14
更新:26/07/27
アリョーシャの演説の中の箇所
ロシア語の勉強を進めている中で、以下は、『カラマーゾフの兄弟』の末部のアリョーシャの演説の箇所(この箇所は名言としてコーナー「ドストエフスキーの名言」に以前から挙げています)とその訳し方(特に訳者によって訳語が異なる語「правдивое」の意味合いや訳し方)について、原文にあたってみての気付きです。
なお、このたびもヤフー知恵袋でも尋ねてみました。
— Ах, деточки, ах, милые друзья,
не бойтесь жизни!
Как хороша жизнь, когда что-нибудь
сделаешь хорошее и правдивое!
《語注》
・ах(アフ)=ああ。※感嘆詞。
・деточки=子供たち。
・милые=かわいい。愛らしい。
・друзья=親友たち。
・не(ニェ) 〜 =〜してはいけません。
・бойтесь=恐れる。
・жизни=※жизнь(人生、ジュィズニ)の語尾
が変化したもの。
・как(カーク) 〜 =どんなにか〜であることか!
・хороша、хорошее=※хороший(良い。素
晴らしい。美しい。ハラショーイ)の語尾
が変化したもの。
・когда(カグダー) 〜 =〜する時は。
・что-нибудь(シトー ニブジ)=なんでも。
・сделаешь=行う。
・хорошее и правдиво =※形容動詞(形
容詞)の語尾を変化させて「〜なこと」
という意味の名詞になっている。
・〜и(イ)〜 =〜そして〜。〜と〜。
・правдиво=※правдивый(真実の。正直な。
誠実な。プラヴディーヴイ)の語尾が変化
したもの。
《邦訳例》
米川正夫訳
「ああ、諸君、ああ、かわいい親友、
人生を恐れてはいけません!
なんでも正直ないいことをしたときには、人生はなんと美しいものに思われることでしょう。」
原卓也訳
「ああ、子供たち、愛すべき親友たち、
人生を恐れてはいけません!
何かしら正しい良いことをすれば、人生は実にすばらしいのです!」
亀山郁夫訳
「そう、かわいい子供たち、かわいい友人たち、
どうか人生を恐れないで!
なにか良いことや、正しいことをしたとき、人生ってほんとうにすばらしいって、思えるんです!」
江川卓訳
「ああ、ぼくの子供たち、愛らしい親友たち、
人生を恐れてはいけません!
何か美しい、正しいことをしてごらんなさい、なんと人生がすばらしいものになることか!」
・ヤフー知恵袋での質問と回答
AIさんの回答や露和辞書にある通り、
語「правдивый」は、「真理に基づいた、真実を体現する」といった意味合いを持つことがわかりました。
邦訳においては、「真理に基づいた」などの訳では、少年たちに向けての言葉として、長くて難しい言い方になるので、「正直な」「正しい」と短く平易に訳したのは、適切だなと思う。
日本語として「正しく素直で、偽り・ごまかしをしない性質・態度」という意味の「正直な」を用いた米川さんの訳は原文の意味合いに忠実なすぐれた訳だと思った次第です。
コーナー「ドストエフスキーの名言」では、この名言は、引き続いて、米川訳のぶんでいきます。
[807]
名前:Seigo
投稿:25/12/10
更新:26/07/27
『虐げられた人びと』の原題のこと
ロシア語の勉強も兼ねて、ドストエフスキーの小説の原題を確認していたら、『虐げられた人びと』の原題と邦訳の題について、わかったことが、いくつかありました。
『虐げられた人びと』の原題である、
Униженные и оскорбленные
を見て、まず、??? と思ったのでした。
(各小説のロシア語の原題は、調べて、ページ内のコーナー「各小説、著作の案内」に以前から付していますが、まじまじと見たのはこのたびが初めてで、『虐げられた人びと』の原題を今回見て、邦訳は「虐げられた人びと」なのに、『罪と罰』の題のように、「AとB」の「と」の意味の接続詞「и(イー)」を挟(はさ)んで、二つの語句が並列!?ということで、???となってしまったのでした。)
そこで、確認してみたところ、上の原題は、そのまま訳せば、「卑しめられ、侮辱された」という意味になり、小説の邦訳の題名としては、これでは冗長になるので、二つの形容詞を一語で訳して「虐げられた」と訳したということがわかりました。なお、ロシア語では形容詞は複数形の形にすることで「そのような人々」の意味を持つので、原題では、そのあとの「人々(люди リュージ)」は省いています。
(ちなみに、小説『貧しき人びと』のタイトルは、原書では、
Бедные(=貧しき) люди
となっていて、людиを付けている。)
今回は、『虐げられた人びと』の原題の表現、及び、ロシア語についていろいろとわかって興味深かったです。
以上のことについて、このたびも、ヤフー知恵袋で問うてみました。
→ 質問と回答
[809]
名前:Seigo
投稿:25/12/20
更新:26/07/27
『カラマーゾフの兄弟』の原題のこと
『カラマーゾフの兄弟』の原題である、
Братья Карамазовы
についても、あらためて、ヤフー知恵袋で、質問してみました。
→ こちら
原題では、Карамазовыはロシア語の格変化で言うКарамазовの生格(前に掛かっていく「〜の」という格)でなく、主格(「〜が」という格)であり、日本語で言う同格として二つの主格を並べていて、直訳すれば、「兄弟たち、カラマーゾフたち」となり、「カラマーゾフ家の兄弟たち」という意味合いではないことがわかり、勉強になりました。
作者ドストエフスキーが「カラマーゾフ」に込めた意味合い(黒塗り等の意味合い)も含めて、研鑽をさらに進めていければ、と思っています。
各論者のドストエフスキー論
[839]
名前:Seigo
投稿:26/07/05
更新:26/08/03
小林秀雄のドストエフ
スキー論のこと
自分は高校時代・大学時代に、評論家の小林秀雄の書いた文章を新潮社の新訂小林秀雄全集(全15巻)のぶんで好んでよく読んだ。その中のドストエフスキーに関する評伝・ドストエフスキーの文章はより熱心に読んでいろいろと感銘を受けた。
氏の評伝『ドストエフスキイの生活』の印象は、私のドストエフスキー観の最初の形成を決定づけた。ドストエフスキーの体験や思いや人柄を伝える引用した書簡などの文章は、ドストエフスキーの生の声として、印象的だった。
氏のドストエフスキー論については、『カラ兄弟』の三兄弟、ムイシュキン公爵、スタヴローギンをはじめ、登場人物論に、はまってしまった。
「ムイシュキン公爵はシベリヤから帰ってきたラスコーリニコフだ」をはじめ、主要小説の内容やテーマについての深い井戸を掘って得たような洞察は、いまだ真意がよくわからないものもあるが、これもまた、強く印象に残っている。
氏は、キリスト教が結局わからなかったと言って、評論活動はベルグソンや本居宣長の考察の方へと移って、関心は、ドストエフスキーから離れてしまったが、もっとドストエフスキー論を続けてほしかったと思う。
今後、小林秀雄のドストエフスキー論は、読み返してみたい。
比較論
[771]
名前:Seigo
投稿:25/05/28
更新:26/07/30
松尾芭蕉 VS ドストエフスキー
ドストエフスキーの作中や生涯の場面や内容のうち、松尾芭蕉のそれと似ているぶんを、過去にいくどか挙げてきたが( → こちら )、同様の場面として、『悪霊』でスタヴローギンとの会話の中でキリーロフが語る緑の木の葉のことを、追加して挙げたい。
キリーロフ「私がまだ十ぐらいの頃、冬、私はよくわざと眼を閉じて、緑の木の葉が一枚、葉脈をくっきり浮きたせて、太陽にキラキラ輝いているところを頭に思い浮かべたものでした。私は目を開けて見る、しかしあまり素敵で、とても信じられないほどなので、また閉じてしまうのが常でした。」
スタヴローギン「それはいったい、何かアレゴリー(比喩)ですか?」
キリーロフ「いえいえ。どうしてですか? 私の云うのは比喩なんかんじゃありません。私の言っているのは木の葉です。ただ木の葉です。木の葉は素晴らしい。すべてが素晴らしい。何かもいいです。」
スタヴローギン「何もかも?」
キリーロフ「何もかも。人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと。断じてそれだけです、断じて! それを自覚した者は、すぐに幸福になる、一瞬の間に。」
上の箇所の中のキリーロフの緑の木の葉の語りには、松尾芭蕉が「おくの細道」の旅で日光東照宮参拝した時に詠んだ次の句が想起され重なったのでした。
あらたふと/青葉若葉の/日の光
(語注:・あらたふと=ああ、尊いことよ。)
※この句の解釈(HP内のぶん)
※なお、同コーナーは、見ての通り、最近、
掲載の芭蕉の名句の数を増やす、ベスト
12を選ぶなど、更新しています。
いずれも、光あふれる中での新緑の青葉の美しさを讃嘆している。キリーロフが思い浮かべて感じ入っているところは、この句を私たちが観賞して感動していることに似ている。
芭蕉の句は東照宮に祀(まつ)られている徳川家康公の御威光も含めて讃嘆しているが、キリーロフもまた、緑の木の葉の美しさにこの世のもののすばらしさを見ようとしている。
自然やこの世の美しさに対する二人の感受性や描写の才には、あらためて感心してしまいます。
ドストエフスキーの影響
が見られる映画・ドラマ
[5]
ドラマ「JIN-仁-」と
ドストエフスキー『白痴』
名前:Seigo
投稿:18/05/08(火)
更新:24/02/12
先々月、良作の
テレビドラマ「JIN-仁-」(第一期11話は2009年に第二期完結編11話は2011年に放送)
の全話を観た。
以前観ているので、観通(みとう)したのはこれで2回目だった。当ドラマは、ドラマとしてよく出来ており、心に触れる名シーンも多くて、観てあらためて楽しませてもらったが、今回は、当ドラマ「JIN-仁-」の主な登場人物の設定とその相関図が、ドストエフスキーの小説『白痴』のそれに、いろいろと似ていることに気付いたのだった。
主要登場人物においてその対応ぶりを述べてみると、
タイムスリップして現代から幕末へ行くことになる主人公の脳外科医・南方仁(みなかたじん)〔演じるは大沢たかお〕は、療養していたスイスからペテルブルクにやってくるムイシュキン公爵に重なり、
(二人ともその時代・社会においてその異質さで人々の間に混乱を引き起こすが、やがて、その優しさと仁道の実践により皆から信頼され愛されるようになり、その社会で活動したのち、最後は、元居た世界に立ち戻ってゆく。)
幕末で橘家に身を寄せて外科医として活躍していく仁の助手をつとめることになり、婚約者だった友永未来を仁が一番に大切にしていることに気付きながら、ひそかに仁を慕っている幕末の武家の清楚な娘・橘咲(たちばなさき)〔演じるは綾瀬はるか〕は、戻ってきたムイシュキン公爵が身を寄せたエパンチン将軍家の美しい令嬢・アグラーヤに重なり、
(やがて彼は彼女を好きになって彼は彼女に求婚し彼女は内心非常に嬉しく思うが、二人が夫婦になることは実現せずに終わった。ただし、夫婦になることを咲が断った点は違っている。)
幕末の吉原の花魁(おいらん)で、自分の身体の病を治してくれた優しい仁に恋し、時に彼に近づきながらも、仁をひそかに慕う咲と仁が結ばれて咲が思いを遂げることをひそかに願う野風(のかぜ)(現代の友永未来・橘未来に瓜二つの彼女らの幕末の御先祖様)〔演じるは中谷美紀〕は、富豪トーツキイの囲い者であったという強いられた自分の汚辱の過去に固執する誇り高き美女・ナスターシャ‐フィリポヴナに重なり、
ひょんなことから吉原を訪れて野風に一目惚れしてからは彼女のいる吉原に時に通っている坂本龍馬〔演じるは内野聖陽〕は、ナスターシャ‐フィリポヴナの虜(とりこ)になっている青年・ロゴージンに重なったのでした。
ただし、龍馬と仁は(野風・未来と咲も)互いに同じ相手を好きになった三角関係にありながらも(焼き餅や劣等感は抱きながらも)悲劇や修羅場を引き起こすほどの嫉妬や対決のシーンはなくて、特に龍馬と仁は良き友人同士・師弟の関係を築いてゆくが、一方、ナスターシャ‐フィリポヴナの虜(とりこ)になっているロゴージンは、ナスターシャ‐フィリポヴナが心を向けているムイシュキン公爵に、恋敵として憎しみや殺意を向けることになり、最後に彼は彼でなく彼女の方を殺害してしまう(一方、最初は相手にされなかった龍馬だが、やがて友人のごとく、野風は龍馬に心を預け、龍馬はそのつど野風をいたわっている。咲さんは、焼き餅は焼きながらも、友永未来さんに譲っている。)という点は違っている。
「JIN-仁-」の作者はドストエフスキーの『白痴』の登場人物の状況とその相関図を踏まえて「JIN-仁-」を創作したのではないかと思えてしまうほど、主要登場人物の状況やその間柄のほかに、仁が初めて野風に出会って彼女が友永未来に瓜二つであること(友永未来の御先祖様であること)に懐かしげに一驚し(引きつけられ)野風の抱える病を洞察するシーンや、南方とムイシュキン公爵の二人はともに脳疾患を抱えていて、時にその発作に襲われること、娘の行く末を気遣う咲の母親・栄(えい)のことをはじめ、作中の細かいシーンや内容やほかの配役においても、類似が見られる。
また、南方・野風の二人の名前や龍馬の採用の由来は知らないが、対応する登場人物の名前の頭文字が、みとムで同じま行音、のとナで同じな行音、りとロで同じら行音になっていることは偶然だろうか?(さらに、咲とアグラーヤについても、咲を咲くと見て、咲の咲くとアグラーヤのアグは同じ同列音で関連がある?)
(単に、佳い恋愛ドラマは『白痴』やこのドラマ「JIN-仁-」のような四角関係(三角関係)仕立てになる、それ故に、両作品の骨格は似ている、ということなのかもしれないが、、、。)
ちなみに、野風を演じた中谷美紀さんは、ドストエフスキーの「白痴」(黒沢明の映画「白痴」?)が好きだそうですが、彼女がドストエフスキーの「白痴」が好きだった時期が「JIN-仁-」に出演していた時期より以前だったのであれば、中谷さんは両作品のその類似に気付いていたのではないだろうか。そうであるなら、作中、彼女がナスターシャ‐フィリポヴナを意識して野風(花魁の野風)を演じている感じが無きにしもあらずだった。
そして、両作品の物語の内容を比較して思うに、社会や人間への批判や風刺を目指す悲劇仕立ての面での出来は『白痴』の方が上だろうが、男女の三角関係という設定はありながら、嫉妬によって引き起こされる悲劇は特に無くて、お互いに相手のことを思いやり、相手及び相手二人の幸せを願い、互いに良き友情関係・師弟関係を築いていて、やくざなロゴージンに比べ龍馬は脱藩浪人とは言え幕末の日本社会を変革していくという高い志を持った優しい快男児として活動を続け、咲は仁を友永未来・橘未来に譲り、仁と咲はその医術(仁術)と仁道で、野風の後の幸せ(また、後世の現在において仁と一緒になる橘未来としての幸せ)に向けて、野風の身体の病を治して難産の野風と彼女の赤子を救う(また、咲は伝染病にかかって重篤となった仁を治し、仁は緑膿菌が感染して重篤となった咲を結果的に治す)ことができた(この点では『白痴』は主人公の無私の憐憫・捨身(犠牲)の精神をもってしても、余命幾ばくの病身の青年イポリートも含めて、相手を一人も救えず、逆に自分たちに悲劇的な終焉をもたらした)という内容・テーマの面では、ドラマ「JIN-仁-」の方が小説『白痴』より上ではないかと思う次第だ。
[667]
映画『男はつらいよ』と『白痴』
名前:Seigo
投稿:24/07/27
更新:26/07/29
寅さんの映画『男はつらいよ』シリーズには、主人公の設定をはじめ、ドストエフスキーの小説『白痴』との類似点が少なからず見られる。
寅さんは、旅から戻ってきては、わけありの見目麗(みめうるわ)しい女性に惚れ込み、しまいには失恋して、また、旅に出る。親族のおじちゃん・おばちゃんがいて、戻ってきては、そこに住み込み、一騒動を起こしては、おじちゃんから「馬鹿」呼ばわりされる。やくざな江戸っ子の面やハンサムではない面など、キャラは異なる部分もあるが、以上の点や、その無私無欲の優しさ・献身や、皆から愛される点、話し好きな面など、寅さんの境遇や性格は、『白痴』のムイシュキン公爵のそれに似ている。( 妹のサクラさんの設定などは、『白痴』にはない。)
寅さんが言った言葉には、『白痴』のテーマに触れているものが見受けられる。
「もうこの人のためだったら命なんかいらない、もう俺、死んじゃってもいい。そう思う。それが愛ってもんじゃないかい。」
ある程度『白痴』を踏まえたのか、映画『寅さん』の原作者に聞いてみたいものだ。
[796]
辛島美登里「サイレント・イブ」と
『地下室の手記』
名前:Seigo
投稿:10/04/29
更新:26/07/31
ドストエフスキーの作中のシーンに重なる曲と言えば、
ページ内の音楽トピに投稿した、
辛島美登里の名曲
「サイレント・イブ」
(作詞作曲:辛島美登里)
の冒頭
♪真白な粉雪人は立ち止まり
♪心が求める場所を思いだすの
は、
ドストエフスキーの小説『地下室の手記』の第U部末の、
主人公が外へ駆け出して降りしきる雪に立ち止まって降る雪を見上げるシーン
(または、第T部末の、ここ数日ぼた雪が降り続く中、主人公が昔のこと
を思い出すシーン)
に重なりました。
実際において、
冒頭及びタイトルで使用している語句、
「白」「立ち止まる」「思いだす」「心が求める」「サイレント(静かな)」等
(以上の表現は、その第U部末の箇所を中心に、江川卓訳の『地下室の手記』の中にあり!ただし「ぼた雪」と「粉雪」の違いなどはあります。)
の面から言っても、
辛島美登里さんは、『地下室の手記』のそれらの箇所や表現を頭において
「サイレント・イブ」の冒頭
を、
さらに言えば、
その歌詞が突飛な感じで出てくる点から言っても、
歌詞の2番の冒頭、
♪本当は誰れもがやさしくなりたい
♪それでも天使に人はなれないから
も、
『地下室の手記』の中の箇所
「ぼくにはなれないんだよ……善良な人間には!」
(第U部の9内)
を、頭において作詞したのでは?
(両者にこれほど対応が見られるということは、、、いつか、一度、辛島美登里さんに尋ねてみたいものです。)
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