|
[事項別の投稿記事]
『白痴』のこと
・ナスターシャ‐フィリポヴナ
の死について(1)
・ナスターシャ‐フィリポヴナ
の死について(2)
作品の典拠のこと
・『リア王』の三姉妹と
『カラ兄弟』の三兄弟
・『ゴリオ爺さん』と『罪と罰』
の類似のこと
ドストエフスキーにおけ
る「自由」の問題のこと
・ドストエフスキーに
おける「自由」の問題 (11)
― 勝田氏の大審問官評
『白痴』のこと
[749]
名前:Seigo
投稿:25/04/02
ナスターシャ‐フィリポヴナ
の死について(1)
(ネタバレ注意) 小説『白痴』において、最後にナスターシャ‐フィリポヴナがラゴージンの手に掛かって死んだ(部屋の中のベッドには彼女の死体が横たわっている)のをムイシュキン公爵は知って、気が触れてしまったラゴージンと早朝までその部屋で寄り添って過ごす間、これこそが彼女の救い(魂の安らぎ・彼女を黙らせること・静謐の獲得)となったのではないか(従来のままでは彼女は、二人の間の板挟みになって、苦しむばかりであり、安らぐことはない。従来の状況ではムイシュキン公爵も彼女を救えない。)と思った(ムイシュキン公爵は以前にもそのようなことをよく考えた)と言えるのではないかと自分は近年考えているところです。
なお、ナスターシャ‐フィリポヴナの死に、そのあと、キリスト教で言う「復活」を期待(予兆)するような『白痴』論があり、そのあたりのことは、難し過ぎて、私の理解を越えていますが、生贄(いけにえ)というさらに難解なキーワードも含めて、作者ドストエフスキーにそのあたりの意味付けが実際にあったのなら、いつか、理解していけたらと思っています。
(※、このたび、Yahoo!知恵袋で、以上のことを問いかけてみました。速答のAIさんからは、ある程度、回答は得られたようです。 →
こちら )

[黒澤明監督の映画『白痴』より。]
[750]
名前:Seigo
投稿:25/04/05
ナスターシャ‐フィリポヴナ
の死について(2)
前回の投稿の追記です。
『白痴』の末部で、ナスターシャ‐フィリポヴナの屍体が横たわる部屋でムイシュキン公爵がラゴージンと翌朝まで寄り添うようにして過ごす間、ムイシュキン公爵が何を思い、考えたか、について、あらためて考えてみたい。
その間、ムイシュキン公爵は、男女の三角四角関係に陥った人間たちの性(さが)による悲劇のことを思い、自分の罪性を思い、その罪に戦(おのの)き続けたと思う。この街に戻ってきて、憐憫・救済の情(じょう)があったとは言え、二人の仲に割り込んでしまい(さらに、同時にアグラーヤのことも愛してしまい)、しまいにはナスターシャ‐フィリポヴナをこういう末路に至らせた原因が二人を嫉妬や不満足等で苦しめた自分にあることを自覚して、ラゴージンとナスターシャ‐フィリポヴナにはほんとに済まなかったと思ったと言える。翌朝までラゴージンに寄り添い、いたわる様子は、そのことを示している。
彼女の死は彼にとって悲しみであるが、同時に、前回の投稿で触れた通り、安寧を得られずにいた彼女の魂をやっと安(やす)んじさせたという思いもあり、自分は彼女の死を実は願っていたという認知は、ラゴージンとの共犯意識も生じさせ、それらの思いは、いっそう複雑な恐れ戦(おのの)きの感情として、彼に迫っていただろう。
と言っても自分の理解はまだまだ不十分であり、このラストシーンを自賛していた作者のこの場面に深く込めた内容を、さらに、もっと理解できていけたたらと思う。
作品の典拠のこと
[39]
名前:Seigo
投稿:22/01/12
『リア王』の三姉妹と
『カラ兄弟』の三兄弟
「検討したい事項・テーマ」で挙げている以下の事項などは、自分で挙げておきながら、興味が尽きないテーマです。
・ドストエフスキーとシェークスピア
※、
『カラ兄弟』における兄弟と親の設定はどこから来たのか、ということが昔から気になっています。
ドストエフスキー自身の親兄弟から、または、親・兄弟に各々つながりのある理念を込めることから、等々、いろいろと指摘できますが、その一つとして、ドストエフスキーが知っていた過去の古典作品からという見方があり、自分はシェークスピアの悲劇『リア王』に注目している。
ドストエフスキーはシェークスピアの作品をよく読んでいた。ドストエフスキーは作中でシェークスピアの作品の登場人物のことをよく引用する。『罪と罰』は、主人公の人物像・状況・人間関係においてシェークスピアの悲劇『ハムレット』をいくらか踏まえていると言えますが、ほかに、『カラ兄弟』の親子(フョードルと三人の息子)の設定において、シェークスピアの悲劇『リア王』の親子の設定(リア王と三人の娘)をいくらか踏まえたのではないかと自分は最近思っている。特に、継承をめぐって父を出し抜こうとする二人の姉のことと父の財産の相続を狙う兄のドミートリイ・イヴァンのこと、親思いの末娘のコーデリアのことと末っ子のアリョーシャのことは、気になります。
そこで、昨日から『リア王』を読みなおし始めました。昨日欧米の小説が並んでいる自宅の本棚から旺文社文庫の『リア王』を引っ張り出したところ、学生時代に読んだのか、全体にわたって傍線引きの書き込みあり。ついでに映画や舞台の「リア王」も観てみます。今後、何か詳しい気付きでも出てくれば、投稿してみたい。
シェークスピアについては、最近、コーナー「名言の泉」関連でいくつかのシェークスピアの言葉に新たに接する機会があり、
・「神はわれわれを人間にするために、何らかの欠点を与えた。」
など、人間というものをめぐってのシェークスピアの洞察は、ドストエフスキーのそれに勝るとも劣らず鋭いとあらためて思う。
ちなみに、私生活のことがよくわかっていないというシェークスピアの晩年のことを描いた映画『シェイクスピアの庭』(2018年)を、後日、観ることにしている。
[300]
名前:Seigo
投稿:23/03/15
『ゴリオ爺さん』と『罪と罰』
の類似のこと
HP内の人文方面のその他のコーナー「外国の作家(100人選)と作品」の追記更新のために、先月からバルザックの各小説について、いろいろとチェックしていて、バルザックの『ゴリオ爺さん』とドストエフスキーの『罪と罰』は、登場人物やその配置など、いろいろと対応していて似ている部分があることに気付きました。
自分は『ゴリオ爺さん』については、登場人物など、その内容はいくらか知っていたものの、まだ読んでいないので、今回この小説のあらすじや登場人物を確認していく中で気付いたのでした。
ドストエフスキーは、学生時代からバルザックの小説は熱心に読んでいますし、『罪と罰』と『ゴリオ爺さん』の類似については、両方の小説を読めば気付くことなので、ドストエフスキーの研究者の間でこの指摘はすでになされているのではないかと思います。その本格的な論文等はまだ確認出来ていませんが、ドストエフスキーを愛好するお方の簡単な指摘ながら、こちらなどが、その後確認出来ました。
『罪と罰』の創作ノートに『ゴリオ爺さん』の主人公ラスティニャックの名が見られることなどは貴重な情報です。
なお、
『罪と罰』で作者はどういう事情でスビドリガイロフを登場させたのかということが以前から気になっていたのですが、今回の気付きにより、作者は『ゴリオ爺さん』の登場人物(主人公ラスティニャックに交渉してくる謎めいた悪党ヴォートラン)との対応を考えて、同様のキャラを持つ登場人物としてスビドリガイロフを登場させたのではないかという見方も出てきたのでした。
ドストエフスキーにおけ
る「自由」の問題のこと
[38]
名前:Seigo
投稿:22/01/06
ドストエフスキーにおけ
る「自由」の問題 (11) ― 勝
田氏の大審問官評
「自由」についてのドストエフスキーの切実な問題提起は、『カラ兄弟』のイヴァンが語る大審問官の章において、一つの頂点に達する。

16世紀の中世のスペインに現れるも捕らえられ幽閉されて尋問を受けるイエス(※この絵のイエスの風情はよいですね)と獄へと導く大審問官
重んじるべきものとしてイエスが民衆に説いた自由について大審問官はイエスに熱く語り、イエスを糺弾する
「人間と人間社会にとって、自由ほど堪(た)えがたいものは、いまだかつてなかった。」
「確固(かっこ)たる古代のおきてに引き換えて、人間はこれからさき、おのれの自由な心をもって、何が善であり何が悪であるか、自分自身できめなければならなくなった。しかも、その指導者といっては、おまえの姿が彼らの前にあるきりなのだ。」
「そうとも、われわれがいなかったら、彼ら(=民衆)は永久に食を得ることができないのだ!
彼らが自由である間は、いかなる科学でも彼らにパンを与えることはできないのだ!しかし、とどのつまり、彼らは自分の自由をわれわれの足もとにささげて、「わたくしどもを奴隷にしてくだすってもよろしいですから、どうぞ食べ物をくださいませ」と言うに違いない。つまり、自由とパンとはいかなる人間にとっても両立しがたいものであることを、彼ら自身が悟るのだ。じっさいどんなことがあっても、どんなことがあっても、彼らは自分たちの間でうまく分配することができないにきまっているからな!また決して自由になることができないことも、彼らは同様に悟るであろう。なぜと言うに、彼らはいくじなしで、不身持ちで、一文の値うちもない暴徒だからな。」
(『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの語りにおいて、中世のスペインに出現するも幽閉されたイエスに向かって放つ大審問官の言葉より。)
勝田氏は言う
「大審問官は、キリストと同様に、荒野の苦行に堪(た)えた人である。彼は、「あれか‐これか」の選択の自由が賦課(ふか)する精神の苦しみを味わい尽くし、人間の運命にとって自由の意味する悲劇性をみずから深く体験し、そしてかぎりない混乱と無秩序と不安と寂寥(せきりょう)とを生み出すべき自由の重荷を知りぬいた人の姿で登場する。だからこそ、老審問官の口調は重々しく真剣で、その言葉はわれわれ読者の心をしめつけないではおかないのである。」
〔 勝田吉太郎『ドストエフスキー』(潮出版社1968年初版)より。〕
この勝田氏の大審問官評の文章は、昔読んで、大いに感心し感銘を受けた文章です。
イヴァンが大審問官の話を語ったあとにアリョーシャが「いったい、自由ってものをそういうふうに解すべきでしょうか」と言っていますし、また、イエスの説いたという自由は宗教的意味合いを含む自由でしょうけれども、大審問官の語る自由の問題は、近現代社会の個人と社会における自由をめぐる問題(自由・権力・パンの問題)であるとみなしてもよいのであり、勝田氏が言うように、大審問官(イヴァン、ドストエフスキー)の内にあった切実な問題として捉えていきたいと思う。
※過去の投稿記事
・ドストエフスキーにおける
「自由」の問題(1〜10)
・「自由」について(1〜19)
|